満月の夜に捨てる嘘



0日目・昼 陽溜まりの村

 収穫の季節も終わって、暫くが経った秋の日。
 段々と冬の空気が村を包み込み始めているとはいえ、窓から差し込む陽の光はまだまだ暖かい。
 ゲルトは、何やら難しい顔をして帳簿を付けている父親――ゲルトの父親のヴァルターは、この小さい村の長である――の姿を眺めて、心中で溜息を吐く。
 折角の晴れの日に、埃っぽい書斎に篭って、金勘定をしているなんて、勿体無い。
 これが、春や夏の農繁期ならば、父親の雇った近隣の農民や村人に混じって畑仕事をしているのだが、収穫が終わったこの時期は、特に定職についていないゲルトにとって、暇を持て余している以外の何物でもなかった。
 そこで、日向ぼっこも兼ねて、散歩がてらに村の皆のところへと顔を出す――皆といっても、収穫が終わったこの季節、殆どの村人達が遠く離れた街へと出稼ぎに行っている今、この村に残っている住人は、ゲルトとヴァルターを含めても十四人しか居ないのだが――これが、ここ暫くのゲルトの日課となっていた。

 家から一歩外に出ると、まだ陽が昇り切っていない為か、秋口の冷たい朝の空気が、ピリリと心地の良い刺激を与え、気持ちを引き締めてくれる。
 村の隅にある自宅を出て少し歩けば、村の長老であるモーリッツの家が見えてくる。
 モーリッツは、十九歳であるゲルトの四倍近くも生きているような年齢だというのに、庭に作った小さな菜園で野菜を育てたり、趣味が高じて職人並となったという金銀真鍮などの細工を、気が向いたときに作り、それを売った金で、悠々自適の生活を送っている老人だ。
 ゲルトは常々、歳を取ったらモーリッツのような生活を送りたいと思っており、時折、細工の材料と酒を持って、教えを乞いに行くこともある。
 そのモーリッツの家の前にゲルトが差し掛かった時、丁度モーリッツの家の扉が開いた。

「あれ? じいさん、おはよう……珍しいね、何処に行くの?」
「おお、ゲルトか、良いところに居たのう……ちょっと、運ぶのを手伝うのじゃ」

 ゲルトが答える間もなく、ずいと差し出される幾つかの小さな木箱。

「トーマスさんの作った箱かい、これ」
「そうじゃよ。 箱はあったんじゃが、やっと入れる物が出来たんでの」

 両手で受け取った上に、幾つも重ねられていく、シンプルな細工の施された木箱を眺めて、ゲルトはその製作者を思い浮かべた。
 森の近くに立てた小屋に住んでいる木こりで、切ってきた木を薪や炭、または様々な木工品に仕上げて、それを売って生活している男で、無骨・筋骨隆々といった言葉が人間の形となったような、大柄な男である。
 村内に家を持ってはいるが、殆ど小屋のほうで生活している変わり者で、噂では村長と折り合いが悪いとか、五年前の流行り病で亡くした妻と子の記憶がある家にいると辛いのだとか、色々と囁かれているが、本当のところは本人のみが知るところだ。

「アルビンのとこ、持ってくのかい?」

 以前からこの村に来ていた商人が、夏頃に行方知れずになった後を継いで、先月から新しくこの村を訪れるようになった行商人が、アルビンだ。
 商売人には必須たる弁術に加え、本人の持つ明るく人好きのする性格から、アルビンは瞬く間に村人達に受け入れられ、仲間として認められた。
 村に住んではいないが、村人――大きな街に住む人間にとっては、判らぬ感覚だろう。

「んむ、そろそろ来ている時間じゃろうて……ほれ、これもじゃ」
「自分は一つしか持ってないじゃないか……今度、酒の一杯も奢っておくれよ」

 溜め息を吐きながら、杖を突いたモーリッツの歩みに合わせて、村の広場へ続く道をゆっくりと歩き出す。
 七十をとうに過ぎて、未だ矍鑠たるモーリッツ。そのモーリッツの唯一自由にならぬところが、右足である。
 若いころ、獣を狩るための罠に誤って掛かったのだという。その古傷の所為で右足を引き摺っており、出歩く際には杖の助けを必要としていた。

「なにを言っておる、ゲルト。若いもんは、老人の手助けをするものじゃ」
「……またそれだ、せめて他にレパートリーは無いの?」
「ふぉっふぉっふぉ、素晴らしい作品は何度見ても良いものじゃろ? それと同じじゃ」
「……なんだかなあ、もう」

 他愛も無い軽口を叩き合いながら数分も歩けば、村の広場に辿り着く。広場では、二人の子供を連れた、青い僧服を着た神父が、アルビンから幾つかの品物を受け取って、代金を支払っているところだった。
 商人故の高い観察力か、ゲルトとモーリッツが広場に足を踏み入れた途端に、アルビンが声を上げる。

「やあやあ、モーリッツさんにゲルトさんじゃないですか、おはようございます」
「おや、おはようございます」

 アルビンの声に、神父が振り返り、軽く御辞儀をする。神父の名は、ジムゾン。一昨年に老衰で亡くなった当時の神父の代わりとしてこの村に赴任してきた神父で、今年で二十七歳になるという。しかし、その端整な顔立ちや線の細さは、ゲルトと同年代であるといっても通じそうなほどに、ジムゾンの外見を実際の年齢よりも若く見せていた。

「おお、これは神父様、おはようございます。リーザとペーターも、元気じゃったかな?」
「うん、僕もリーザも元気だよ!」
「おはよ、おじいちゃん、ゲルトのお兄ちゃん」

 リーザとペーターの二人は、ジムゾン神父の教会で育てられている子供だ。
 二人とも親を失った孤児で、リーザは元々この村の村人の娘だったが、五年前に村を襲った流行り病――七歳の時に両親を失い、教会に引き取られた。ペーターは恐らく九歳で――ペーターは八年前、赤子の頃に、村人の一人に拾われてきたのだ――同じく、教会で育てられている。
 孤児とはいえ、非常に明るく元気な子供達で、一昨年にそれまでの神父が亡くなって、新しくジムゾンがやってきたときも、最初こそ警戒していたものの、今ではすっかりと懐いている。

「リーザ、ペーター。わたしはこれで教会に戻りますが、二人はどうしますか?」
「僕、ディー兄のとこ行きたい、リーザも一緒に行こ!」
「うん、判った。神父さま、ディーターさんの所に遊びに行きます」

 ディーター。ペーターを拾ってきた張本人であり、村では色々と話題となることの多い男だ。
 炎のような赤毛と、余分なものを徹底的に削ぎ落とした、まるで獣のようにしなやかに鍛え上げられた身体。それだけでも充分に目立つのだが、それに輪を掛けて彼の姿を特徴付けているのが、右目の上を額から頬へと走っているものを始めとし、身体のあちこちに残っている傷痕だ。
 その事を尋ねられると、決まって『タチの悪い女に引っ掻かれたんだ』と笑って誤魔化すが、その傷痕が、彼の周囲に対して威圧感を与えていることは、確かだった。
 元々、この村の出身だったディーターは、十五歳のときに村を出て、各地を旅していた。五年後にふらりと帰ってきて、そのときに連れていたのが、まだ赤子のペーターであった。
 彼が言う事には、村に帰る途中の街道で、籠に入って捨てられていたのだという。放っておけばそのまま衰弱死するか、野犬などの餌にされるのは目に見えている。それを見過ごすことも出来ず、取り合えず拾ってきたのだと。
 村での協議の結果、ペーターは教会にて育てられることになったのだが、ディーターは何かというとペーターの事を気に掛けており、本当は彼の実の子供ではないか、などと囁かれもしていた。

「判りました、ディーターさんの家に行くのですね。ご飯は、また頂いてくるのですか?」
「うん。日が沈む前に戻るんだよね、神父さま!」

 ディーターの家は、彼が元々住んでいた家だ。彼が村に戻ったとき、既に彼の両親は亡くなっていたのだが、数年間放置されて傷んでいた家を補修して、そのまま住んでいる。
 度々遊びに行くペーターとリーザに食事を与えたり、ほぼ毎日と言って良いほど酒場に顔を出すディーターだが、彼がどうやって生活費を得ているのかは、誰も知らなかった。ただ、月に一度街へと出掛けることから、その際に何らかの方法で金を得ているのだろうということだけが、判っているのみだ。
 多数の傷痕と収入源の謎から、多くの大人達から、ディーターはならず者だと陰口を叩かれているが、彼は子供に対しては非常に優しかった。ゲルトも、リーザくらいの歳の頃には、ヨアヒムやパメラと共に、ディーターに色々な事を教わったものだった。

「そうですね。もしも遅くなるようなら、ディーターさんに送って貰うよう頼むのですよ」
「うん! それじゃあ、行ってきます!」
「いってらっしゃい、転ばないよう気を付けて」

 駆け出したペーターと、それに少し遅れて追いかけるリーザ。
 それを、眩しそうな目で見送りながら、アルビンが微妙な笑顔を浮かべて、何処か寂しげに呟いた。

「元気ですね、子供達は……彼らを見ていると、ひとつの所に腰を落ち着けて、家庭を持つ生活に、憧れてしまいますよ。そう思いませんか、神父さん?」

 アルビンは、三十も半ばを過ぎて、未だ独身であった。幾つもの村を渡り歩く行商人の彼が家庭を持つには、何処かの街に、自らの店を持てる日を待つしかない――そして、そのような日が来るかどうかの保証は、何処にも無いのだ。

「確かに、子供は良いものです。しかし、わたしは神に仕える身ですからね……さて、わたしはそろそろ教会に戻らないと。失礼します」

 ジムゾンは、三人に軽く目礼して、村外れの教会へと続く道へと、ゆっくりとした足取りで歩み出していった。
 青いジムゾンの後姿が広場から出たのを切欠に、アルビンが商売人の顔へと戻り、ゲルトの抱えている幾つもの箱に、さも今気付いたかのように、話し出す。

「……おや、ゲルトさん。その木箱は、もしやモーリッツさんの新作ですか?」
「おお、そうじゃよ。また良い値を付けとくれ」

 途端に始まった、モーリッツとアルビンの値段の交渉。それには関係のないゲルトは、アルビンが広げた荷物の中から、目ぼしい物を物色する。
 一通り目を通し、ゲルト自身が興味を引かれるものは見当たらなかったものの、代わりに『ヨアヒム』と書かれた札の付けられた包みを見つけ、手に取った。
 ヨアヒムは、ゲルトと同い年で、俗にいう幼馴染という間柄である。
 彼は、五年前の流行り病の後、一度は両親と共に街へと越していったのだが、身体が弱い所為か、街の空気に馴染めずに、去年から村へと帰ってきていた。
 村長の息子という立場にあるゲルトは、久しぶりに会った幼馴染が、立派に手に職を持って――昔から本を読む事を趣味にしていたヨアヒムは、本を読み、内容を一言一句違えずに写す――写本を職業にして、生活費を得るようになっていた――のを見て、羨望と焦りを感じたものだった。

「アルビンさん、これ、僕が立て替えとくよ。このあと、ヨアヒムの所に行くつもりだし」
「そうですか? では、お願いしましょうか。御代はヨアヒムさんから先に頂いてるので、そのまま持っていって下さい」

 頷き、その包みを掴んで立ち去ろうとしたゲルトを、モーリッツが呼び止める。

「ゲルト、ヨアヒムの家に行くのじゃろ、ついでに頼まれてくれんか?」
「うん? 何をだい?」
「こいつを届けて欲しいんじゃ、頼まれものじゃよ」

 渡された木箱は、一箱だけモーリッツが自分で運んでいたものだ。なるほど、全て自分に渡さなかったのはそういうことかと納得して、木箱の中身を覗き見るゲルト。
 木箱の中に収められていたのは、真鍮で彫られた、小さな小鳥の飾り物であった。

「へえ……綺麗だね、これをヨアヒムが?」
「んや、ヤコブじゃよ。ヨアヒムのところへ行くのなら、通り道じゃろう?」
「そうだね。それじゃあじいさん、また夜にでも」

 両手に木箱と包みを抱えて歩き出したゲルトの背中に、モーリッツの声が届く。

「ああ、そうじゃ……渡すついでに、儂の作った愛の小鳥の行き先を、訊ねてきとくれ。良い酒の肴になるじゃろうて」
「……悪趣味だなぁ、普通にパメラにあげるんじゃないの?」

 その言葉にゲルトは足を止め、僅かに顔をしかめて振り返った。
 ゲルトとヨアヒムの共通の友人であるパメラ。その五歳年長の兄であるヤコブは、朴訥な農夫で、彼の優しく純粋な人柄を知るゲルトとしては、彼をそのような酒の席の話のタネにする事は躊躇われたのだ。

「ふぉっふぉっふぉ。妹に贈るもんを頼むのに、顔を赤らめる兄は居らんじゃろうなあ……ヤコブの想い人は誰じゃろうなあ、暫くは退屈せんで済みそうじゃわ」

 楽しそうに笑うモーリッツに、肩をすくめてみせると、ゲルトは広場の、来たときとは逆の方向の道へと歩き出した。
 この村は、深い森に沿って街道が大きく曲がっている、丁度その地点にある。その曲線の頂点が広場となって、そこから四方へと道が伸びている。
 その内、西と南の道は街道がそのまま、村の目抜き通りとなっており、先ほどリーザとペーターが向かったディーターの家も、西の道に並ぶ家々の列にある。その先まで歩を延ばすと、通りの端には酒場を兼ねた村唯一の宿が立っており、村人達は暇さえあれば、その宿に集って憩いの時とするのだ。
 また、東の教会へと通じている道は、周囲には麦畑が広がっており、なだらかな丘の上に立つ教会以外には、殆ど建物は無い。村長であるヴァルターの家とモーリッツの家、農作業用の小屋などがぽつぽつと建っているのが、北の道だ。
 これからゲルトが向かうヨアヒム、そしてヤコブの家は、南に向かう街道に点在する民家の一つである。こちらの道は、村外れに流れる川に架かった小さな橋から先、段々と高度が上がっていき、そのまま街道は峠を越え、遥か遠くの山向こうの村まで続いていくのだ。



「お邪魔するよー」

 勝手知ったる他人の家とは、良く言ったものだ。ノックと共に扉を開き、ゲルトが足を踏み入れると、家主であるヤコブがのそりと顔を出した。
 丁度昼食を終えたところだったのか、パメラが食器を洗っているのだろう、小さな水音が、部屋の奥から聞こえている。

「ゲルト、よう来たべ。パメラに用だか?」
「いや、じいさんに頼まれたんだ、これ届けてくれって」

 ゲルトが小鳥の真鍮細工の入った木箱を差し出した途端、ヤコブは目に見えて狼狽えた。

「だ……誰かに、おらがこんなの頼んだって言ったべか?」

 ヤコブは、まるで違法な品でも取引しているかのように木箱を受け取ると、バツが悪そうに呟いた。
 他の農民達が、西の街まで出稼ぎに行っている中、ヤコブだけが村に残っているのは理由がある。
 収穫祭の少し前に、彼の妹であるパメラが風邪を拗らせてしまい、その容態は存外に重く、一時は自分で歩くことも出来なかった。そんな状態のパメラを残してゆくわけにもいかず、看病の為に村に残っていたのだ。結局、一月ほどでパメラの体調は良くなったものの、その頃には、毎年懇意にしている仕事場が既に代わりの人間を既に雇ってしまっており、といって都合よく人の足りない場所が見つかるはずもなく、ヤコブは、仕事の口を見つけることが出来なかったのだ。
 それを見かねてか、この村でパン屋を営んでいるオットーが――オットーは、ヤコブの幼い頃からの親友である――ヤコブが飼っている鶏の卵を、相場と比べれば大分高い値で購入しており、それが現在のヤコブの僅かばかりの収入となっている。
 その、幼馴染のオットーの好意といっても良い収入の内から、このような飾り物を購入することは、恐らくはヤコブにとって、かなりの罪悪感があったことだろう。

「大丈夫だよ、誰にも言わないよ。けど、じいさんに口止めしといた方が……」
「おはよう、ゲルト。何を口止めするの?」

 洗い物が終わったのか、手の水気を布巾で拭っているパメラがひょこりと顔を覗かせると、見ていて気の毒になるほどに、ヤコブがびくっと身を震わせて、振り向かずに答えた。

「な、何でもないべよ、気にするでねえ」
「や、おはよ」

 ゲルトとヤコブを交互に見比べて、パメラが呆れたように首を振り、ヤコブのそれよりも柔らかな、長い栗色の髪がさらりと舞う。

「兄さん、嘘下手よね。それで、ゲルトは何の用?」
「特に用はないよ、顔出しただけ」
「ふーん……で、二人で何こそこそ話してたの?」
「え……何もないって、ヨアヒムのとこに届け物行く途中だし。あ、そろそろ行かないとなぁ」

 小脇に抱えていた包みをひょいと掲げて見せて、肩をすくめる。
 少なくとも、自分の反応はヤコブよりは自然な反応だったと自負しているのだが。それとも、パメラから見れば五十歩百歩なのだろうか。

「まあ、良いけど……ヨアヒムに、ちゃんと食事はするよう言っておいて。どうせ、また昼も食べずに本を写してるんだろうから」
「伝えとく」

 ひらひらと手を振って、逃げるようにヤコブの家を後にする。残されたヤコブは一人でパメラの追及を受ける事になるかもしれないが、それはゲルトの関与したところではなかった。
 そのまま、ヨアヒムの家へと歩き出したゲルトは、辺りに僅かに漂う、食欲を誘う香り――小麦粉が焼ける香ばしい匂いを鼻腔に感じ、ふと足を止めた。オットーのパン屋の前だった。
 そういえば、未だ昼食を取っていなかった。何か買っていって、ヨアヒムと共に遅めの昼食にするというのも、悪くない。
 オットーの曽祖父の代からここにあるというパン屋。長い年月を経て飴色になった木の扉を開くと、芳香は一層濃厚なものとなった。どうやら、丁度何かが焼き上がったところに、具合良く出くわしたようだ。

「やあ、ゲルト。タイミングが良いなあ。今、ブレッツェルが焼きあがったところだよ、どう?」
「いいね、四個くらい御願い。あと、ゼンメル、二つで」
「ん、まだ熱いから気を付けてね」

 出来立てのブレッツェルの香りは、ゲルトの食欲を大いに刺激した。ヨアヒムと共に食事をとるつもりだったとはいえど、この誘惑には抗し得なかった。

「うわあ、こりゃ我慢出来ないや……」

 カリッとした食感と、程よい塩味が口中に広がる。これで手元にビールがあれば、それだけでもう何も言う事は無いというものだ。

「どう? 普段はレジーナさんとこでしか食べないでしょ。焼き立ても美味しいんだよ」

 レジーナというのは、この村に一軒だけの宿屋の女主人だ。酒場を兼ねたその宿屋で出すパンを焼いているのも、このオットーである。

「うん、最高。ビールが欲しいな、これは」
「だろうね。僕も焼いてて、そう思う……おっと、いらっしゃい」

 僅かに軋んだ音を立てて扉が開き、新たな客が店へと入ってくる。目深にフードを被ってはいたが、僅かに覗く多少癖のあるふわりとした金髪が、その客の正体を告げていた。
 春頃にこの村に越してきた、羊飼いのカタリナ。歳の頃は、オットーやヤコブと同程度といったところだ。日中は常に羊や山羊の放牧を行っている為、村内で彼女を目にする事は少ない。

「こんにちは、オットーさん。ゲルトさんも」
「こんちは、カタリナさん……そいじゃ、そろそろ行くよ。オットーさん、また夜にでも」

 広いとは言い難い店内に、何時までも居座るわけにもいかないし、この焼き立てのブレッツェルが冷めない内に、ヨアヒムに届けてやるのが友人というものだ――既に一つを平らげているのは、置いておくとして。
 家を出るときには、まだ昇り切っていなかった太陽は、いつの間にか南の空高くで、村を暖かく照らしている。

 うん――今日も、大好きな村はいつも通りみたいだ。







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