満月の夜に捨てる嘘





0日目・夜 満月の夜に


 もうじき、完全に夜の帳が辺りを包む。
 空には雲が掛かり、星や月の明かりは期待出来ない。これでは、自分の足元が見えなくなるのにも、数刻も掛からないだろう。
 まだ陽のある内に、山を下り切ることが出来たのは僥倖だったと、ニコラスは思う。幾ら旅慣れているとはいえ、このような月も無い夜に山道を歩くのは、非常に危険だ。
 既に道も平坦になってきている。昨日の昼頃に峠から眺めた限りでは、この先の村へ辿り着くのも、そう遠くない筈だ。
 歩むニコラスの耳に、水の流れる僅かな音が届いた。自分の記憶を辿る限り、村は川の傍だった。
 この分なら、宿が閉まる前に村に入れるかもしれない。そうなれば、久方振りにマトモな食事と、暖かなベッドに有り付ける。自然、ニコラスの歩みは速くなった。
 最後に野宿以外をしたのは、十五日も前のことだ。いや、正確には違う。ニコラスは、山を越える前、八日前の夜にベッドで眠っていた――誰一人として生きている者の居ない、廃村の家屋で。
 酷い有様だったと、今でもはっきりと思い返すことが出来る。村のあちこちに散乱した骨や、肉の不自然に削げ落ちた腐乱死体、そして建物の床や壁に広がった血痕と思われる跡。
 ニコラスは確信していた。あれは、人の成せる業ではない。魔に属するものの――これまでの旅でもしばしば耳にしたが――あれは、人狼の仕業に違いなかった。
 歩を進めながら、ニコラスは思い返した。あの村の住民を皆殺しにした人狼は、一体何処に消えたのかと。
 死体の状況は、一夏ずっと放置されていたものとは思えなかった。ならば、長くとも三月は経っていないことになる。
 とすれば、山向こうの村を滅ぼした怪物が、この付近に潜んでいても不思議ではない。新たな標的を探して、彷徨っている事は十分に考えられる。
 その事に気付くと、それまでは何ともなかった暗闇が、途端に恐ろしくなった。草陰から得体の知れぬものが飛び出してくるのではないか、背後からいきなり襲われるのではないかと。
 ――ニコラスの歩みは、知らぬ間に小走りへと変わっていた。



 村に入ったニコラスが最初に見つけた村人は、籐の籠を持った青年であった。青年の持つ籠の中身は、無論、人の肉ではない。数々のパンだった。
 ニコラスは、安堵の溜息を吐いた。どうやら、この村は人狼に滅ぼされてはいないようだ。

「あれ、珍しいな……旅人さん?」
「そうさ、この村に宿はあるかい? 山道をずっと歩いてきて、くたくたなんだ……半月振りに、まともな飯も喰いたいしな」

 青年は、微妙な表情を浮かべた。確かに、冬を控えたこの季節に、山を越えるような物好きは殆ど居ないだろう。

「……でしょうね、案内しますよ。僕も宿に行くところなんです、付いてきて下さい」

 言われるままに、青年の後を歩く。ニコラスの旅の疲れに気を使っているのか、随分と遅い歩みだった。
 それにしても、とニコラスは思う。辺りに見える戸数の割には、人気がない。多くの農村の例に漏れず、収穫期を終えて、街へと出稼ぎに出ている住民が殆どなのだろう。
 小さな広場を抜けて、数分歩くと、どうやらそれらしき建物が見えてきた。
 笑い声と明かりが、窓や戸の隙間から漏れている。酒場を兼ねた宿なのだろう。

「ここです。紹介しますよ、入りましょう」

 キィ、と小さな音を立てて、扉が開く。
 それと共に、様々な音がニコラスの耳に届く。数人の談笑する声、食器の触れ合う細かな金属音、酒のグラスをテーブルに置く乾いた音。
 半月の間、他の人間と話す機会すらなかったニコラスには、その雑多な音が心地よい活気となって、身に沁みていくように感じられた。

「遅いじゃないかい、オットー。酔っ払い共が、あんたのブレッツェルを心待ちに……と、そちらさんは?」

 宿に足を踏み入れた青年に、声が掛けられる。青年の名はオットーと言うらしい。
 そのオットーの名を呼んだのは、恐らくこの宿の主だろう。ピンクのドレスを着た恰幅の良い中年の女性が、入って右脇のカウンターから顔を出していた。

「お客さんですよ、レジーナさん。旅人さんです、ええと……」
「ニコラスだ、女将。今夜の寝床と、食事に有り付きたいんだが。こんなもんで足りるかい?」

 懐の袋から、銀の細かい粒を幾つか取り出して、カウンターに置く。
 レジーナと呼ばれた女主人は、その粒を一通り確認し終えると、満足気に微笑んだ。ニコラスの差し出した銀の量は、相場としては十分過ぎるもののはずであった。

「料理には、ワインを一瓶サービスしておくよ。必要なら、湯も用意するよ。それと、女将なんてよしとくれ。レジーナでいい」
「助かるよ。なら早速、湯を借りたいんだが……食事はその後で頼む」
「あいよ、付いてきな」

 レジーナが腰を上げると、木製の椅子が、重圧から解放されたのを喜ぶように、ギシッと音を立てた。
 カウンターの正面に置かれた幾つかのテーブルの一つから、声が上がった。
 先程のオットーという青年の着いたテーブルの隣、明るい金髪の男がニコラスに向け手を振っていた。

「旅人さん、後で旅の話聞かせておくれー」

 片手を上げてそれに答え、レジーナの大きな後姿を追って、奥の廊下へと入る。フロアの灯が僅かに届いてはいるものの、薄暗い廊下だ。
 ふと、目の前のピンク色の影が、一つの部屋の前で止まる。

「あんたの部屋はここ。ほら、鍵だよ。湯殿はその突き当たりを曲がって正面だ。湯は、すぐ用意するさね。他に、判らない事はあるかい?」
「いや、大丈夫だ」
「そうかい。それじゃあ、ごゆっくり。食事は、声を掛けてくれればすぐに出せるよ」

 手渡された小さな鍵で、扉を開ける。取り敢えずは、荷物を置かねばならない。
 部屋に入れば、一杯に足を伸ばして寝れるだけのサイズのベッドと、衣籠。見る限り、シーツも清潔で綺麗に整えられているし、掃除も行き届いている。
 悪くない宿のようだ。客が訪れることが少ないだろうこの時期に、これだけの部屋に即座に通されたことで、ニコラスはそう感じた。

「さて……と、まずは旅の汚れでも落とすとするか……」








 ――乾きが満たされない。普通の食事など、食べても食べても満足など出来るものか。
 肉は、鮮度が命だ。殺し立て……いや、生きたままが一番だ。合わせるワインが、暖かな血であれば最高だ。

 どうしよう。どうしたい。どうするのだ。ああ、誰も見ていない。我慢をする必要など、あるものか。

 状況の判っていない間抜け面――いや、目の前の御馳走に飛び掛り、首筋に齧り付く。
 脊髄を一瞬で噛み砕く。痛みを感じる暇も無かっただろう。間抜け面のまま、それは絶命した。
 いつ、人が来るかも判らない。食事は、手早く終えねばならなかった。
 喰らい付いた首筋から、幾らかの肉を噛み千切って咀嚼する。久々の新鮮な血肉の味は、やはり甘美だった。
 その味を楽しみながら、死体を横倒し、爪で腹を一文字に引き裂いた。
 ピンク色の腸が飛び出してくるが、それに用はない。下手をすると、糞を食べる羽目になるからだ。
 腸を引き摺りだし、目的のものを千切り取る。肝臓と胸腺、これは最高だ。食事の度に、これが楽しみで仕方ない。
 口に放り込み、牙を立てると弾力のある肝臓が弾け、血が口の中で噴き出す。この食感は、病み付きになる。
 さて、次は何処を喰べようか?
 素直にフィレ? それとも骨髄や脳髄を啜ってみるか? そうだ、舌を抜いて味わうのも良いだろう――



 ――風が、吹いた。空を覆っていた黒い雲が流れ、真円に描かれた月が僅かに姿を見せる。
 淡い月明かりに、照らし出されたのは。朱に染まる自らの手と、原形を留めていない死体。
 その、変わり果てた自らの手を眺め、自問する。

 ――自分は、何故こんなことをしているのか?

 その問いに答えるものは、無い。







「人狼なんて只の噂じゃないかな、旅人さんは心配性だなあ」

 金髪の――この村の村長の息子だという、ゲルトという青年が、幾分か酔った様子で、ニコラスの話を笑い飛ばした。
 周りで飲んでいる幾人かの村人達も、暇潰しには丁度良い娯楽だとでも云うように、ニコラスの話を聞いて笑っている。
 旅人自体も珍しいのだろうが、いつの間にかニコラスは、周りで飲んでいた幾人かの者達の注目を浴びていた。

「しかし、これまでの旅の途中で人狼が出たという街を幾つも……それに、俺は見たんだ……」

 ニコラスの脳裏に、先日の光景が思い出される。
 強烈な力で叩き潰されたのか、頭部が半分吹き飛ばされ、そこに目一杯の蛆が沸いている腐乱死体。腹部の肉がごっそりと削げ落ちた死体や、噛み砕かれた痕のある白い大腿骨。
 本当に、酷い有様だった。この村の住民達は、その事をまだ知らないのだろうか?

「何をだい、旅人さんよ」
「人狼をかな? しかし、そのワリにはお前さん……随分とピンピンしてるみたいじゃのう」

 先程ディーターと名乗った、額から右頬にかけて大きな傷のある赤毛の男が訊ねたが、それをモーリッツと呼ばれていた白髪の老人が茶化し、どっと笑いが起こった。
 信じないなら信じなければいい。酒の入っている所為もあり、ニコラスは吐き捨てるように呟いた。

「あれは絶対に人間の仕業じゃあない……まして、普通の獣でもな。あれは人狼がやったのさ」
「ええと、あれっていうのは?」

 それまで黙って会話に耳を傾けていた線の細い色白の青年が、口を開いた。確か、ヨアヒムと言っていたか。

「決まっているだろう。山向こうの村の――」

 何を判りきった事を。苛立って声を荒げ掛けたニコラスは、ふとそれに気付く。
 山を一つ越えただけの隣村――と云っても、旅慣れたニコラスの足でさえ八日を要した道のりだが――で、あのような惨劇が最近発生したというのに、この村人達からは、怯えも恐怖も見られない。
 こんな季節に山を越えてきた旅人のニコラスに対しても、一片足りと警戒する様子すらないではないか。

「……まさか、知らないのか?」
「なんじゃ、隣村がどうかしたんかの?」

 ――それこそ、まさかだ。悪い冗談であってくれ、そうニコラスは祈った。
 幾ら旅人も村人も少ない時期とはいえ、隣村と全くの交流が無いとは思えないし、旅人が皆無の筈は無い。

「……あの村は、滅んでいた」

 場の空気が、凍った。少なくとも、ニコラスにはそう感じられた。
 今度は茶化す者も居ない。カウンターでグラスを磨いていたレジーナでさえも、その動きを止めてニコラスを注視している。

「おい……それは本当か。冗談でした、じゃ済まないぜ?」

 表情を変えたディーターが、ニコラスに強い目線をぶつけて、半ば脅すような調子で口を開いた。
 後ろ暗い事のある者なら、睨まれるだけで慌てふためきそうな迫力だが、生憎とニコラスはそのような視線には慣れていたし、嘘を吐いているわけでもなかった。

「本当だ、この目で見てきた……酷い有様だったよ。だが……俺にとっては、君達がこれまで知らなかった事の方が不思議だね。
 俺の見た限りじゃ、あの村の死体は夏以降に死んだものだったぞ。この道は、秋前でも旅人は通らないのか?」

 周囲に動揺が広がる。今この村に到着したばかりの旅人が、噂話や酒の肴としてなら兎に角、そんな出鱈目を口にして、村人を不安にさせるメリットなどない。
 正気を失った狂い人なら話は別だろうが、生憎とニコラスは自分が狂っているとは思っていない。
 胸を張って自分を囲む村人達を見回す。ぐるりと見渡した後、ディーターと視線がぶつかる。強固な意志を持った、澄んだ目だ。一瞬の睨み合いの末、ディーターがかぶりを振って沈黙を破った。

「ちっ……少なくとも、この旅人さんは嘘は言ってねえ。人狼なんてモンが実在するかはともかく、山向こうの村が全滅してたのは本当だろう」
「そうかい……あたしは、ディーターがそう言うのなら、信用するよ」

 僅かな沈黙の後に、溜め息と共にレジーナが口を開くと、周囲の村人達もそれぞれ微妙な表情を浮かべつつも頷く。このディーターという男は、その外見とは裏腹に村人達からそれなりの信頼を得ているのだろうか。
 そこから先は早かった。レジーナがすくと立ち上がり、テキパキと指示を下し始める。なるほど、流石に女手ひとつで宿を切り盛りしているだけの事はある、とニコラスは思った。

「皆を集めなきゃね――ゲルト、ヨアヒムと一緒にヴァルターを呼んできな。
 それとディーターは教会、オットーはヤコブの処へ。トーマス、カタリナ……羊飼いの娘だ、頼めるかい?」
「ああ、判る」

 名前を呼ばれた男達が、一斉に宿から飛び出していく。宿に残ったのは、モーリッツとレジーナ。
 そして、先程に行商人だと紹介をされた男――村人と親しげに会話をする様子から、定期的に同じルートを回るタイプの行商人だと判断した――アルビン。
 何処か飄々とした様子で、自分の皿に残った料理を平らげている様子に、何処となく違和感を覚えた。
 ――他の人間が残していった料理に手を出しているような、このモーリッツという老人は論外だが。

「おい、あんた」
「ああ、はい。なんでしょう、ニコラスさん?」
「行商人って言ってたが、向こうの村までは、商売に行ってないのか?」
「そうですねぇ。何分、随分と遠いですから……春になったら、足を伸ばしてみようかとは思っていたんですがねぇ」

 確かに、あの長い山道を数々の商品を背負って歩くのは、普通の旅よりも時間が掛かるだろうし、何より危険だ。そして、危険を冒して商品を運んだとしても、この時期の農村には、その商品を売り付ける相手は少ないのだ。
 商品を運ぶ手間やリスクを考えれば、この村までが限度といったところか。
 ニコラスも納得して、食事の残りを再び口に運び始める。
 久し振りの上等な料理と酒の筈だったが――どうやら、それを楽しんでいる暇は余り無さそうだ。



「来ていないのは――カタリナとトーマスだけか、まあいい。それで、ニコラスさん……でしたか? 人狼だというのに、間違いはないんですね?」

 この村の村長だという、立派な顎鬚を生やしたヴァルターという壮年の男。
 彼はニコラスの前に座って、様々な質問を始めてからというもの、何度も指を組んだり外したりと、神経質そうな仕草を続けている。

「何度も云うが、人狼だって確証があるわけじゃない。
 だが、単なる獣の群れで村が全滅するなんて有り得ないし、村人同士の争いならば――相手を喰ったりはしないだろう」
「しかし、それは死後に獣――例えば野犬などに喰べられた可能性もありますからな」

 ニコラスは、こめかみの辺りが引き攣るのを感じた。そんな可能性を上げればキリがない。
 先程から、ヴァルターの質問は『本当に人狼が居るのか』という点に焦点が向いているように思う。
 この際、人狼か如何かは問題ではない。隣村の村人達を皆殺しにものが存在する事は確かなのだ。その何かへの対策を練るのが、村長としての役目ではないのか。

「なあ、村長……それが人狼だろうが殺人鬼だろうが、危険な事には変わりないんじゃねぇのか?」
「この時期に、わざわざ山を越えてこちらに来るとも思えんがね。獣でもその程度の知恵はあるだろう、人間なら尚更だ」

 壁に背を預けているディーターに、応じるヴァルターが。ニコラスの方を横目で流し見たのは、気のせいではないだろう。
 なるほど、面倒を持ち込むような旅人は、この村長のお気に召さなかったということだ。

「……別に、無理に信じて貰わなくてもいいさ。どうせ、俺は明日には出発――」

 ダン、と扉が勢い良く開け放たれ、言葉が中断される。音の方向、宿の入り口にその場の全員の視線が集まる。
 飛び込んできた、白髪を短く刈り込んだ大柄の男。その背には、気を失っているのか、ぐったりとした若い女が背負われている。
 男は、ぜぇぜぇと息を吐きながら、掠れた声を上げた。

「皆――」
「どうしたんだい、トーマス。そんなに、慌てちまって……ほら、水だよ」

 レジーナに手渡されたグラスを一気に呷って、トーマスと呼ばれた男は叫んだ。

「喰われてた、羊が――何かが居るぞ、絶対に!」






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