満月の夜に捨てる嘘





 ――昨夜の羊を喰べたのは、同胞の仕業だろう。
 雲間から時折覗く程度ではあったが、見事な月だった。気の利かぬ雲に覆われ、その美しい貌の一部は隠されていたとはいえ、あの月では食事もしたくなる。その気持ちは、同胞として、充分過ぎるほどに理解している。
 しかし――ものには時期というものがある。そして、昨日は食事のタイミングとしては、最低だ。狙ったかのように、村人以外が村に立ち寄っている日ではないか。
 このまま村を出られ、他の村や街に情報が――いや、自分が事件に居合わせた事を知っているものが、一人足りとて生きていてはならないのだ。
 一度、事件を起こしたからには、人を喰い尽さねばならない――若しくは、自らが人に殺されるかだ。  事件は、己の手で終息させねばならない。己が命を犠牲にしてでも、だ。同胞全体に危機が及ぶような事があってはならない、それが掟だ。

 自分はまだ死にたくはない。突然の事で、心の用意もしてはいなかったが――同胞と協力すれば、なんとでもなる。
 群狼。そういう言葉がある。我々、誇り高き人狼の血族の狩のスタイルは、本来はそういうものだ。
 人間と同数で戦えば、絶対に負ける事はない。多数の同胞と共に、旅の商隊などを装って村に入り、一夜の内に皆殺しにする。一度は、そんな爽快な狩を体験してみたいものだ。
 だが、現実は甘くない。人間は圧倒的に多く、人狼の血族は少しづつ減らされてゆく。
 同胞の中には、狩られる事に怯え、人を喰わずに一生を過ごし、人として死んでいくような者も存在すると聞く。
 ――冗談ではない。人狼としての誇りが、自分にはある。静かに見守る月に誓って、この村を滅ぼす。全ての同胞と自分の為に。

 ――アォォーン

 決意が。人の耳では音として聴き取ることすら適わぬ、高周波の咆哮となって村の夜を貫いた。
 果たして、返答は――あった。それも期待を遥かに超える、良い情報と共に。
 思わず口元が緩み、人としては不自然に尖った犬歯を露出させてしまいそうになる。

 これは、随分と――楽しい狩になりそうだ。





1・2日目 朱色の眠り


 朝からずっと続く、村民全員を集めての会議。昨晩、羊飼いのカタリナが飼う羊の一匹が、惨たらしい姿で発見されていたのだ。
 トーマスは、その変わり果てた羊の前で気絶していたカタリナを運ぶ前に、その羊の死骸をさっと観察していた。
 獣に襲われた家畜の死体を、これまでにも幾度も見た事のあるトーマスにとって、傷痕からその凶器を想像する事は容易だった。鋭い爪と、強靭な顎を備えた牙で殺されたのだろう事は明白だった。
 しかし、あのような喰べ方は獣では絶対に有り得ないとも、トーマスは判っていた――柔らかく、そして美味いところだけを食べている。それはまるで、"人間のような"食べ方だった。
 獣にはそのような嗜好を持つだけの知能は無いし、まして人間に鋭い爪と牙は無いというのに。



「ふぁーあ……眠いな……寝てていい?」

 丸一日、起きていたからだろう。遂にゲルトが音を上げた。
 村人達は、それぞれ仕事や睡眠の為に自宅に戻ったり、用事が済んだら宿に来たりと、会議の面子は変わっているのだが、その中でゲルトだけがずっと残っていた。
 村長の息子として何かをせねば感じているのか、それとも単に他にする事がないだけなのか――とにかく、ゲルトは昨夜の騒ぎからこちら、一睡もせずに会議に参加していた。

「疲れたろう。なんなら部屋を貸そうか、ゲルト」
「いやあ……家戻るよ。ありがと、レジーナさん」

 危うい足取りで、ゲルトがふらと立ち上がる。

「おいおい、ゲルト……大丈夫か?」
「一人では心配だ、私も一緒に戻ろうか」

 ゲルトの父親で、村長であるヴァルターが、ゲルトの様子を見て腰を上げる。小心者の癖に、金と権力を背景にした高圧的な態度を取るこの村長を、トーマスは好いていなかった。明るく社交的な息子とは大違いだ。
 立ち上がろうとしたヴァルターを身振りで制して、ゲルトが扉に手を掛ける。

「大丈夫大丈夫。人狼なんて居るわけないじゃん、みんな大袈裟だなぁ」

 そう言い残して、ゲルトは宿を出て行った。どうやら、本当にただ暇だっただけらしい。
 羊とはいえ、実際にひとつの命が奪われているのに、もう少し緊張感を持った方が良いのではないか。
 人狼でなかったにしろ、羊を食い殺した獣が近くに存在することは確かなのだから、警戒するに越したことは無い。

「……なら、あの仔を殺したのはなんだっていうの……」

 俯いていたカタリナが、痛々しい声で呟いたのが、耳に届いた。重く、押し殺したような声。
 以前、放牧をしているカタリナの姿を見たことがあるが、羊と楽しそうに戯れていたのが印象に残っている。
 純粋に羊が好きで、羊飼いの道を選んだのだろうと、トーマスはその時感じたものだ。
 モーリッツの熟練した技に比べれば稚拙な細工だが、トーマスも木を彫って様々な品を作るのは好きだ。伐ってきた木材を焼いて、炭にする作業も奥が深く、嫌いではない。
 しかし、カタリナとはひとつの大きな違いがある。トーマスは自ら望んで木こりになったわけではない。代々続いてきた家業を継いだだけだ。
 この違いは大きい。もしトーマスが羊飼いの家系に生まれていたとしても、自分はカタリナのようには、羊に愛情を注ぐ事は出来ないだろう。

「……やったのは、獣でも人でもない……俺には判る。だから、余り気を……」

 口にした後で、気付く。犯人が野生の獣や人間でない事が判ったからといって、可愛がっていた羊が死んだ事には変わりない。自分の言葉は、全く慰めとしての意味を成していないではないか。
 事実、カタリナはきょとんとした眼差しで、自分を見ている。これでまた、自分を変な人間だと認識する相手が増えるのだろう――いつもそうなのだ、自分は。こんなことを言いたいというイメージだけはあるのだが、それを上手く表現出来ない。結果、ズレた発言をして周りを白けさせたり、妙な目で見られたりするのだ。
 それでも妻はそんな不器用な自分を理解し、また支えてくれていた。娘もこんな愛想の無い父親に懐き、愛らしい笑顔をいつも向けてくれていた。けれど――その家族は、今はもうない。五年前の流行病で、多くの村人と同様に、死んだ。

「……その、つまり」

 ――駄目だ。適切な言葉が思い付かず、やはり口篭ってしまう。そんなトーマスに、陰を僅かに残したまま、カタリナが微笑んだ。

「ありがとうございます……励まして下さってるんですよね。意外でしたので、ちょっとびっくりして……」
「あ、ああ……」

 何が意外なのかと尋ねたかったが、敢えて口を噤む。ロクな答えが返ってこない事くらいは、理解出来る。聞かれたカタリナも、答えに困るだろう。意志が伝わったのは喜ぶべき事なのだろうが、複雑な思いである。
その遣り取りを横目で見ていたヴァルターが、口を開く。

「獣でも人でもないから、人狼だと言いたいのか? ――馬鹿馬鹿しい、単に森から迷い込んだ狼か猪だろう」
「猪は羊を襲わないし、普通の狼の爪はもっと小さい。それに――獣なら、糞が何処かにある筈だ」

 顔も向けずに、素っ気無く答える。やはり、ヴァルターの喋り方は、一々、トーマスの癇に障る。もっとも、ヴァルターの方でも、トーマスが彼を嫌っている事は感じているらしいが。
 そんな空気を察したか、レジーナが立ち上がり、パンと手を打ち鳴らした。

「よし、ちょいと休憩といこうじゃないか。ワインを温めるよ、飲みたきゃ手を挙げな」

 黙って手を挙げる。ふと見れば、この場に居る全員が挙手していた。皆、延々と続く議論には飽いていたのだった。



 全員が、湯気を立てる赤ワインのカップを手にとって、話し合いが再び始められた。
 適度な甘味と香辛料の刺激のお陰か、再開された議論には建設的な意見が目立つ。

「だからよ。何度も言うように、人狼だろうが獣だろうが、狩っちまえば良い話じゃねぇのか?」
「おらもそう思うべ……早く退治した方がいいだよ、村長。神父のとこのチビ達も心配だでな」

 壁に寄り掛かったディーターの言葉に、ヤコブがこくこくと頷いて賛意を示す。
 確かに、自分やディーターなどであれば、猪だの狼だのと出くわしても、一匹くらいならば、どうにかなるだろう。しかし、女子供や老人のモーリッツに対しては、十分な脅威だ。
 無意識の内に、死んだ娘の姿を、隣に座っているカタリナに重ねながら、トーマスは口を開いた。

「……何人かが交代で、見回りをするというのはどうだ?」

 ふとトーマスは気付いた。思えば、昨日会議が始まってから、具体的な案は自分のこの提案が最初ではないか。
 それだけ、皆はこの事態を軽く見ている――いや、頭の片隅では異常に気が付いてはいるが、気が付かないフリをしているのだ。異常を認めてしまえば、それと向き合わざるを得なくなるから。
 実際、あの羊の死体が異常なものだと気付いたのは、自分だけではない筈だ。だというのに、判り易い常識の範囲内に収めようとして、獣の仕業だと思い込みたがる。現実から目を逸らすことは楽だが、事態を解決することには何一つ役立たないというのに。

「ほう、お前にしては良い案だ――ならば、見回りはお前に任せようか。獣の痕跡など判らんからな、我々は。何日か続ければ、要らん心配で無駄骨を折ったことが、判るだろう。さあ、今日の会議は終わりだ。用がないものは、解散しろ」

 こうなることはある程度予想はしていたし、どちらにせよ発案者の自分がやるつもりだったが。それでも、ヴァルターの口から言われると、腹が立つのは不思議なものだった。
 トーマスは、ヴァルターを睨み付けて、席を立った。それも、故意に音を立てて、勢い良く。
 反射的に、ヴァルターがびくりと身体を震わせて、後退った。小さな愉悦を感じながら、トーマスはゆっくりと扉へ向かった。

「帰って寝る……こう暗いと、何も見えんからな」

 唖然とするヴァルターが口を開く前に、トーマスは宿の扉を潜る。その際に、ニヤリと笑って親指を立てているディーターと、目が合った。
 外は、未だ陽は完全に落ちてはいないが、辺りが真っ暗闇になるのも遠くない話だ。
 取り敢えずは、明日のはなしだった。相手がなんであれ、夜のあいだに動くのは、危険すぎる。そう考えたトーマスが、ゆっくりと歩き出して幾らも行かぬうち。背後から、声が掛けられた

「待つだ、トーマスさん。おらも明日、一緒に見回りするべ」

 小走りで近付いてきたヤコブの口から、僅かに荒れた息と共に出た、意外な申し出。
 自慢ではないが、トーマスは表情を隠すのが苦手だった。思ったことが、すぐ顔に出る。そんなトーマスの表情の変化に気付いたのだろう、ヤコブは軽く顔を落として、苦笑いを浮かべて呟いた。

「今、おら仕事してないだで……ちっとでも、村のために役立ちたいだよ」

 ヤコブらしい言葉だ。トーマスは、そう感じた。不器用で責任感が強い――昔のトーマスも、そうだった。もっとも、ヤコブと違い明るくはなかったし、純朴でもなかったが。

「今日は家の方に居る……朝、迎えに来てくれ。それまで、寝ている」

 それだけ告げると、トーマスは再び歩き出した。ヤコブの肩越しに、何人かが宿から出てきたのが見えたからだ。
 ここに長居をして、またヴァルターの顔を見るのは、不愉快だった。





『あなた……そろそろ、起きて下さい……』

 ぼんやりとした意識の中に、妻の声が滑り込んでくる。
 起きなくてはいけない事は理解しているが、身体はそれを拒否している。
 この目が覚める直前の、夢とも現ともつかぬ心地の良さに、もう少しだけ身を任せていたかった。

『……もう少し……』
『お父さん。もう朝食用意してあるんだから、起きてよ』

 焼き立てのパンとスープの香りが、ふわりと漂ってくる。

『もう……困ったなあ』

 ベッド際に立った娘が、トーマスの身体をゆらゆらと揺らす。
 その振動は、ゆっくりとトーマスの意識を現実へと引き戻す。
 靄が掛かったようにぼやけていた視界も、それと共にクリアになっていく。

『あ……起きちゃった。おはよ、お父さん……またね』





「……ハンナ!?」

 長年の森仕事で鍛え上げられた全身の筋肉を総動員して、トーマスは勢い良く跳ね起きた。消えてゆく娘の姿に、手を伸ばした形で。

「わっ!? な、なに!?」

 よく通る、澄み切った朝の空気のような声。先程まで耳に届いていた、ハンナの僅かに鼻に掛かったような声ではない。ベッドの脇に立っていた声の主は、パメラだった。
 トーマスは混乱した。確かに、娘のハンナの声だった――馬鹿な、そんな筈は無い。ハンナは五年前に死んでいるのだ、あれは夢だ。久し振りの自宅であったから、パメラの声を寝呆けて聞き違えたのだろう。だから、この家で眠るのは辛いのだ。
 そう納得した後で、トーマスは新たな疑問にぶち当たった。そもそも何故に、パメラがトーマスの家に居るのか。

「驚かせてすまないべ、トーマスさん。パメラが一緒に来るっちゅうて、聞かないもんだで……まあ、おはようだべ」

 村の見回りの手伝いを申し出て、トーマスを迎えに来る事になっていたヤコブが、ベッドから少し離れたところで微妙な表情を浮かべている。
 可愛い妹を、危険な可能性もある見回りに連れて行くのは心配だろうし、それを止めれなかった事を自省しているのだろう。
 そのヤコブの後ろ、半開きの扉の前にもう一人の影があった。扉から入ってくる逆光の所為で、トーマスには一瞬、それが誰だか判らなかった。目を細め、手で光を遮って、その影を眺める。
 日光を反射して、磨かれた銅のような光沢を放っている明るいブラウンの髪。その髪に加えて、頼り無げだが整った顔の造形。それに身体が弱いというのも納得がいく線の細さと、屋外に出る事が少ない為の肌の白さ。

「おはようございます。俺も、見回り手伝うことになりました」

 その声は、トーマスに影の主がヨアヒムだと確信させた。
 美形という表現を使っても、村の誰もが異論を差し挟まないであろうヨアヒムだが、その声だけは別だ。ヨアヒムの声は、常に風邪を引いているように掠れている。肺だったか気管だったか、とにかく呼吸器系が悪い事が原因だそうだが、詳しい事はトーマスは知らなかった。

「ヨアヒムは、私が引っ張ってきたんだけどね。あ、トーマスさん。これ、オットーさんから預かった差し入れです。仕事で手伝えないから食事だけでも、って言ってました」
「あ、ああ……助かる」

 パメラが差し出したのは、幾つかのパンの入った小さな籠だ。寝起きで呆とした頭で、それを眺めるトーマス。パメラの流れるような一連の台詞は、トーマスの脳に半分も届いていなかった。
 トーマスは差し出されたバスケットから、真っ白なゼンメルを一つ取り出して、齧り付いた。どうやら焼き上がって余り時間は立っていないらしく、まだ暖かく柔らかい。硬く歯応えがある黒パンを噛み締める方がトーマスの好みではあったが、人の好意に注文を付けるわけにもいかない。それにオットーの焼くパンは、それが何であれ、村人達の舌を満足させるだけのものだった。トーマスも、その例外ではない。
 もごもごと口を動かしながら、自分が寝呆けて叫んだ娘の名に、一切触れてこない三人の無言の心遣いに、トーマスは感謝した。未だトーマスは、五年前に死んだ娘と妻に心を縛られていた。家族の夢に、少なからず動揺していたトーマスは、必要以上にゆっくりとパンを胃に収めていった。



「んー……良い天気、散歩するにはもってこいよね」

 空に雲は無く、底抜けに青い空が広がっている。このところ、段々と下がっていた気温の方も、今日は随分と暖かい。パメラの言う通り、非常に良い天候だ。

「パメラ、おら達はピクニックしてるわけじゃないだよ……」

 大きく伸びをするパメラに、疲れた声でヤコブが釘を刺す。全く以ってその通りだが、朝に見回るのは、獣の痕跡を探す為というよりは、村長に対しての意地のようなものだ。
 日のある内から動く獣は居ないだろうし、そもそも普通の獣だとは考えていないトーマスからすれば、散歩だろうがピクニックだろうが、変わりはないと思われた。

「天気が良いのは事実じゃない。私だって真面目に――」

 栗色の肩甲骨の辺りまで伸びた髪を靡かせて、くるりと半回転したパメラの視線が、ヨアヒムのところで止まった。不審に思って目をやれば、ヨアヒムはある一点を凝視している。

「どしたの、ヨアヒム」

 パメラには答えず、ヨアヒムはトーマスへと向き直って、視線を向けていた方向へと指をやった。

「いや……トーマスさん。あれって、動物の……」
「ん……どれだ」

 ヨアヒムの指先した先には、確かに動物の排泄物と思われる、黒褐色の物体があった。
 しかし、良く気付いたものだとトーマスは感心する。トーマスは、ヨアヒムが指摘した物体を視界に捉えるのに、十秒程度の時間を要した。その物体があったのは、草原を挟んで向かいの、村長やモーリッツの家へと向かう道の端である。

「凄いじゃない、ヨアヒム。いつも本ばかり読んでる癖に、目はいいんだ。じゃあ、行ってみましょ」
「そ、そんな急がなくったって……」

 パメラに腕を引かれて、ヨアヒムが小走りで駆け出してゆく。ヨアヒムの僅かばかりの抵抗は、当然のように無視されたようだ。
 後を追って歩き出したトーマスの隣では、ヤコブが大きな溜め息を吐いている。彼が今日、肺から吐き出した空気の量は、既に普段の一日分を使い果たしているのではないだろうかと思わせるほどに、深い深い溜め息だった。

「……元気なのは良いことだ」

 これでも、トーマスにとっては精一杯に考えた末の言葉だ。その言葉の真意が伝わったかどうかは判らないが、ヤコブは苦虫を纏めて三匹も噛み潰したような表情で答えた。

「元気過ぎるだよ、あれは。ヨアヒムも、もうちっとパメラに強く出てもいいと思うべよ」
「あれは……惚れてるからだろう」

 途端、首が折れるのではないかとトーマスが心配する程の勢いで、ヤコブが振り向いた。その表情は、驚愕を通り越して、呆然としたものであった。その表情は、トーマスが色恋沙汰に関して発言したのが意外だった為なのか、それとも可愛い妹に恋する者の存在を知っての驚きか――あるいは、両方なのか。それは、トーマスには判断が付かなかった。前者だとしたら、失礼な話だった。これでも、亡くした妻とは愛を育んだ上で結婚したのだが。
 どう声を掛けたものかと悩むうち、ヤコブの表情に疑問の色が浮かんだ。その瞳の焦点は、トーマスではなく、その背後の風景に向いていた。

「……鳥?」

 ヤコブが呟いた。トーマスが振り向き、空へと目を向けると、一箇所をぐるぐると旋回する鳥の群れが視界に入った。何故気が付かなかったのか――そんな光景を、トーマスは何度も見たことがあった筈なのに。
 その光景から導き出される可能性に、ヤコブが漸く思い至って、顔を青褪めさせた時には、既にトーマスは走り出していた。
 だが、その努力は報われなかった。先を進んでいた二人は、見てしまったのだ。絹を裂くような――いや、息の限りに搾り出された、パメラの絶叫が響いた。
 顔を蒼白にして、呆然と立ち尽くすヨアヒムと、失神して、そのヨアヒムの細い腕に身体を預けているパメラ。その元に、トーマスとヤコブが漸く辿り着くと、ヨアヒムが壊れた仕掛け人形のように、首をぎこちなく回した。

「ゲルトが……」

 その一言が限界だったのだろう。ヨアヒムは駆け寄ったヤコブにパメラの身体を預けると、口元を押さえて道の端に屈み込み、嘔吐した。
 朝食に採ったのだろう、咀嚼されたパンとソーセージの欠片が混じった胃液がぶちまけられ、胃酸独特の臭いが立ち上った。
 もっとも、そんなものはこの光景の前では、大した刺激にもならなかった――ヨアヒムは、悲鳴を上げなかっただけ立派だったと言えよう。
 トーマスは、こみ上げる吐き気を抑えながら、その光景を見詰めた。こんな死に様は、トーマスの四十五年に渡る人生の中でも、見たことがなかった。
 乾いて変色した血で、赤黒く染められた草のベッド。その上に、ゲルトの変わり果てた――ヨアヒムの言葉がなければ、一目にはゲルトと判別出来ぬほどに損壊した死体が横たえられていた。
 何の冗談のつもりか、両手を胸――といっても、肋骨すらなく、潰れた肺が露出している――の上で組まされた形で。
 その下の腹部には、赤黒く大きな穴がぽっかりと口を開いており、本来その腹腔に収まっているべき臓器は、どれ一つとして所定の位置に存在しなかった。
 良く注意して観察すれば、赤い肉片と血の奥に、白い背骨を見出す事が可能だったかもしれない。
 腸も全て体外へと出されており、乱暴に引き千切られたと見られる部分が周辺に転がっていた。恐らく、ヨアヒムが発見した排泄物は、その際に飛び散ったものだろう。
 また、右脚は根元からもぎ取られており、左脚もボロボロのズボンの生地の合間から、肉が削げ落ちて随分と細くなっているのが見て取れた。
 最も酷い状況なのは、首から上だ。喉元は見事に喰い千切られており、舌も根元から噛み切られた痕がある。
 眼窩にはそこに在るべき眼球は無く、灰色のゼリーのような物体が血に混じって幾らか付着していた。恐らくは脳髄を、眼窩から取り出そうとしたのだろう。だが、その試みは失敗に終わったらしい。右のこめかみが大きく砕かれており、そちらから、僅かに残った脳髄がだらりと流れ出していた。
 ゲルトの自慢の種だった、母親譲りの純粋な金髪だけが、殆ど血に汚れずに残っていることが、余計に不気味だった。

「……なんだべ、あれは」

 ヤコブが、ゲルトの死体の奥に立っている木を指差した。そこには、赤い血の混じった爪痕で、文字が刻まれていた。

 ――"We are Werewolves"







 即座に、村に居た全員が宿へと集められた。その中には、旅の疲れ故か、予定を変更して二泊目を取り、いざ出発せんとしていたニコラスの姿もあった。
 不機嫌そうな表情を隠そうともせず、ニコラスは吐き捨てた。

「……だから言っただろう。俺は、警告したぞ。村長さん、これはあんたがそれを無視した結果だ」

 その言葉に、ゲルトの死体を確認した後に宿に入って以来、ずっと俯き口を閉ざしていたヴァルターが、ゆらりと立ち上がった。

「警告だと……? 余所者が、偉そうな口を……」
「その余所者の情報の正しさに、息子を殺されてから気付いたというわけだ。愚かな親を持った息子は、哀れだな」

 周囲の空気に、明らかに緊張が走った。そのニコラスの言葉は恐らく、ヴァルターに最後の一線を越えさせるには、十分なものだろうからだ。

「……そうか……貴様がその人狼だな!? よくも、よくもゲルトを――!」

 トーマスには、目の前で開始されようとしている乱闘を止めぬ理由はなかった。ヴァルターが振り上げた腕を、振り下ろされる前に後ろから掴む。怒りと憎悪に満ちた、悪鬼の如き形相で振り返ったヴァルターに、トーマスは一言だけ口にした。

「……お前は村長だ、その立場を忘れるな」

 それに対して、ヴァルターが新たに言葉を発する前に、レジーナの良く通る声が響いた。

「ヴァルター。トーマスの言う通り、あんたは村長なんだ。落ち着きな」

 ヴァルターの拳から力が抜けたのを感じて、トーマスは、掴んだ腕を放した。トーマスとニコラスを、憎々しげに一瞥して、ヴァルターは椅子へと腰を下ろした。

 それから数時間の間、今後どうするべきかの話し合いが行われた。中心となったのは、人狼の情報を村にもたらしたニコラスと、村や街で噂話を聞く事の多いアルビン。そして、様々な本を読み写し、その中に人狼に関する書物もあったというヨアヒムだ。
 彼らの話を総合すると、『人狼とは、陽の光の下では人間と変わりがないが、夜は鋭い爪と牙、強靭な膂力を誇る半狼の姿へと自在に変化する事の出来る存在で、退治するには昼の間に殺すしかない』のだという。
 アルビンやニコラスが過去に聞いた噂話では、人狼を見分ける方法は無く、人狼と思しき人間を選び、昼の間に処刑するしかないということだった。
 そこで初めて、三人の話が喰い違った。ヨアヒムが言うには、人狼かどうかを調べる唯一の方法を知っているという。ただし、それは人狼の血が最も活性化する時間――月が天頂に達する瞬間にしか判らず、複雑な手順と調べる相手の血が必要だという。
 話がそこに至った段階で、それまで黙って椅子に座り、不安がるペーターとリーザを宥めていたジムゾンが、初めて声を上げた。

「安心してください、皆さん。私には、主の御加護があります。そのような邪悪な存在を見分けれない筈がありましょうか。
 一晩の間、どなたか一人の姿を胸に祈りを捧げれば、主は、その方が人狼かどうかを、私に告げて下さるでしょう」

 おお、と安堵と感嘆の声が周囲から漏れる。しかし、幾人かの顔には疑惑と不信の感情が浮かんでいるのに、トーマスは気付いた。ヨアヒムとニコラスである。
 ヨアヒムは、自分の知る方法の他に手段が無い、という記述を信じてのことだろう。しかし、ニコラスまでもがジムゾンの言に懐疑的な表情を浮かべているのは、どういう事だろうか。
 トーマスの他に、何人かの村人が、そのニコラスの表情に気付いたようだ。視線の集中したニコラスは、肩を竦めて口を開いた。

「俺は生憎と、神なんざ信じちゃいないんだ……昔、医術を齧ってたことがあるんでね。神に祈る患者は多く見てきたが――助かった奴は、ほんの一握りさ。
 ま、道具もないし、傷を縫合するくらいが関の山だが……処刑した奴が人間か、そうでないかは判別するくらいの事は出来るぜ。
 勿論、タダってわけにはいかないがね。そうだな、これが解決しないことには、村から出してくれんだろうし……その間の宿代でいいぜ、報酬は」

 その告白は、ジムゾンとヨアヒムの人狼を調べる法ほどではなかったが、やはり村人へ希望を与えた。
 もっとも、ヴァルターはそれを信じてはいないようだった。単純に、憎しみに流されてのことかもしれなかったが。

「待て、皆……こいつがその人狼だったらどうする! 嘘を並び立てられたとしても、我々にはそれが判らんのだ! 処刑するのなら、こいつからだろう!」

 しん、と皆が静まり返る。確かに、その可能性は否定できなかった。何より、ニコラスはこの村の住人ではない。かれが村に現れたのと同時に、人狼騒ぎが始まった。トーマスとて、ニコラスの言葉を無条件に信じる気にはなれなかった。
 周囲のその雰囲気に、ニコラスが溜め息を吐き、「お手上げだな」と小さく呟いた。諦めに似た響きが、その声に混じっているように感じられた。
 そんな重い空気の中、おずおずと手を挙げる者が居た。一昨日に襲われた羊の飼い主の、カタリナだ。

「……あの、こんな事を言うと、気味悪がられると思って、今まで黙ってたのですけど……」

 口を開こうとしたヴァルターを、レジーナが目線で制した。やはり、ヴァルターとレジーナでは役者が違う。実際、この村での信望が一番高いのは、村長のヴァルターでも長老のモーリッツでもなく、レジーナだった。それは、トーマスだけでなく、本人達を除く村人全員の一致した見解だった。
 レジーナが、カタリナに続きを促した。

「その……私、死んだ人の霊と会話が出来るんです……祖母もそうでした、母は違いましたけど。
 ……だから、ニコラスさんの言う事が本当かどうかは、私には判ると思います」

 つまりは、人狼を調べられる人間と、死者が人狼かを知る事の出来る人間が、二人づつ存在するということになる。
 どちらかが嘘を言えば、もう片方にはその嘘が判明するということ。また、人狼と言って処刑した者が人狼でなければ、その嘘も判明するということだ。
 その意味を、トーマスが遅まきながら理解した際、苦い顔をしたジムゾンの口から、カタリナを否定する言葉が漏れた。

「……良いですか、皆さん。人は死ねば、主の御許へと召されるのです。霊などと云うものは、まやかしでしかありません。死者の霊と言葉を交わせるなどと、そのような言に、惑わされないよう……」
「神父さま、人狼も神様のところへ行けるの?」

 滔々と喋り続けるジムゾンの言葉を、無邪気なペーターの疑問が遮った。神の教えを説くジムゾンは、その質問に即座に答える事が出来ず、言葉を詰まらせた。かれの信ずる宗教では、邪悪なものもすべてが、神の創造物とされていた。

「ははっ、一本取られたようだな、神父。ペーター、お前、いいとこ突くぜ」

 笑い声を上げたディーターだが、その眼は笑っていなかった。真剣な表情で、宿に集まった全員を一通り見渡して、立ち上がった。

「オーケイ、整理しよう。神父とヨアヒムが、人狼を調べる事が出来る。この旅人さんとカタリナは、死人が人狼かどうか調べられる。こいつはグッドなニュースだ、それはいい。
 ――けどな。昨日まで普通に話してた連中を、自分らの手で処刑する。お互い、誰が人狼なのか疑い合って、間接的に殺し合う。これからやるのは、そういうことだ。お前等、その覚悟はあるのか?」

 それは、正論だった。誰一人として、ディーターの言葉に反論は出来なかった。皆が、一瞬にしてその現実に直面させられた。
 しかし、トーマスは気付いていた。その一瞬の後に、皆の視線が交錯し、場の空気が変わったことに。この相手は本当に信頼出来るのかどうかと考えるような――ディーターの言葉は、彼が意図したものとは逆の方向に働いてしまっていた。
 そんな場からは、確かに反論は無かった。しかし、有効な反論が出来なくとも、意見を通す方法はあった――権力を使うことだ。

「……処刑は行う。一日に一人。基本は合議制、どうしても決まらぬ際は一人一票の記名投票で決定する。何か意見は」

 ヴァルターが、静かに立ち上がって、全員の顔を眺める。その瞳には、危険な光が宿っている。
 誰も、異を唱える事は出来なかった。下手に逆らえば、逆上したヴァルターの格好の標的とされるだろう。そして、それは自分が今日、処刑される可能性が高まることを意味していた。
 だが、トーマスは敢えて口を開いた。ヴァルターへの反感などではない。死んだ妻と娘が、この村を好きだったから。

「……俺は、反対だ」

 ぎょっとした視線が、トーマスに集まった。幾人かの――レジーナやモーリッツの目は、馬鹿な真似は止せと言っていた。
 しかし、これが自分の役目だと、トーマスは感じていた。自分ではヴァルターを止めることは出来ないと理解していたが、誰かが言わねばならないことだった。もし、ここでレジーナが意見し、処刑されてしまえば、ヴァルターを止める者は居なくなる。

「さっきディーターも言ったが……皆の中に人狼なんて化け物が居るとは信じたくない。村の外から来て、何処かに潜んでる可能性だってある。
 ……例え、この中に居るとしても、無実かもしれない奴を処刑するなんて、俺は御免だ」
「なら、代案を出してみろ……他に案があるというのならな」
「……調べる方法があるんだから、全員をそれで調べればいいだろう」
「神父もヨアヒムも、一日に一人しか調べられない。全員を調べるのに、二週間は掛かるのだ。その間、何人の犠牲が出ると思う? 人狼といえど、半分が人間ならば、馬鹿ではあるまい。既に人間と判断された者だけ、狙ってくるだろう」

 そこに、アルビンが手を挙げた。漸く、他の村人も判ってくれたのかと、トーマスは期待した。だが、それは違った。

「……二人が手分けして調べれば、一週間で済むんじゃないでしょうか?」
「神父かヨアヒムのどちらかが人狼だったらどうするのだ? 二人が同じ人間を調べなければ、その人間に対しての人狼の疑いは晴れん!」
「片方が人狼だと言った村人を処刑して、カタリナとニコラスの結果が食い違ったなら、それで――」

 その輪に一人、また一人と加わって、どうすれば人狼を効率良く退治出来るのか、という議論となっていた。
 トーマス自身も、御世辞にも回転が速いとは言えない頭脳を酷使して、その議論の中に居た。だが、必死に弁を振るいながら、心は別の事を思っている。

 ――そうじゃない。村人同士で処刑し合うなんて前提が異常なんだ。大本がマトモではないのに、細部での議論をしても――。







 ――気付けば、トーマスは絞首台の上に立っていた。この処刑台は、トーマスが三十年ほど前に、父と共に作った物だった。
 台の上から見下ろした皆の顔には、様々な表情が浮かんでいる。だが、全員に共通する感情がひとつだけあった。『自分が吊られなくて良かった』という安堵だ。悲痛や罪悪感といったものに隠れてはいたが、トーマスにはそれが見通せていた。
 村の為、皆の為と自分の心に言い訳をしながら、自分達の行為を正当化するのだ。その奥底にある、自分だけは助かりたい、という感情を糊塗するために。それが、トーマスには悲しかった。

「あんたが今考えているだろうことは、多分正しい。だから、許せとは言わない……何か、言い残すことはあるかい?」

 そのレジーナに、トーマスは一言だけ遺した。レジーナが頷いたのを確認すると、トーマスは目を閉じた。それが、合図となった。
 足元の踏み台の固定が外され、不安定な状態となる。腕を後ろ手に縛られた状態ではバランスも取れず、いつかは台が倒れて絞首されるというわけだ。
 だが、トーマスは潔い死を選んだ。踏み台を、自ら蹴倒したのだ。
 しかし、長い年月で鋼鉄のように鍛え上げられた筋肉が、却ってトーマスに苦しみを与える結果となった。普通の人間であれば、落下の衝撃で頚椎が折れて即死に至る。だが、トーマスの分厚い筋肉に護られた頚椎は、その衝撃に耐えたのだった。
 だが、不幸中の幸いと言うべきか――踏み台を蹴倒した際の反動によって、トーマスの巨体は大きく揺れた。その幾度目かの振動が、縄をしっかりと角度を付けて、首に食い込ませた。その縄は、トーマスの首を通る全ての血管を圧迫し、血の流れを止めた。脳に酸素が運ばれなくなれば、人は数秒で意識を失う。それは、トーマスも例外ではない。トーマスの視界は一挙にぼやけ、苦痛は消えていった。
 娘と妻が、笑顔で手招きをしているように、トーマスは思えた。



 ――ああ、こんな簡単なことに、五年ものあいだ、気付かなかったのか。自分が死ねば、娘と妻と、また共に暮らせたのだ――







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