満月の夜に捨てる嘘 3日目夜 幕間・鈍色の舞踏会 「――どうした、ペーター。眠いのか?」 日暮れと同時に、ヴァルターの処刑が執行された後。 村人は、逃げるように自宅へと戻った者と、宿に残り、酒で気分を紛らわそうとする者の二つに分かれた。 ディーターは、後者を選んだ。ペーターは、教会に帰ったジムゾンとリーザとは異なり、宿に残っていた。 レジーナに出されたジュースにも口を付けず、ディーターの隣で口を噤んで俯いていたペーター。その小さな身体が、ゆらゆらと船を漕ぎ始めていた。 「んーん……平気だよ……」 ふるふると首を振るペーターに、ディーターは苦笑して席を立つ。 カウンターに数枚の銀貨を置き、ペーターの肩を叩いた。 「無理すんなって。ほら、帰るぞ。おぶるか?」 「……うん」 屈んだディーターの背に、ペーターの体重が掛かる。以前におぶった時よりも、その小さな身体は重みを増していた。 ペーターは、まだ、すくすくと育つ年頃のはずだ。よく寝て、よく食べる。それが必要だ。八年前、ディーターが村へ連れてきた赤子は、確実に成長していた。このところ、ディーターはそれを実感して、感慨深い思いを抱くことがある。 「ディーター、お疲れ。もうすっかり夜だし、気を付けるんだよ」 「ご苦労さんじゃな、ディーター。……儂もそろそろ戻ろうかの、あまり遅くなって、人狼と出くわすのは御免じゃし」 ペーターを背負って立ち上がったディーターに、レジーナとモーリッツを始めとした、村人達の労いの声が掛けられた。 それに片手を挙げて応え、ディーターは宿の扉を潜った。 「俺もそろそろ帰ろうかなぁ……オットーさんは?」 「んー。僕は、もうちょい飲んでくよ」 アルコールで僅かに火照った肌から、秋の夜の冷たい空気が熱を奪う。 心地よい冷たさだった。酒気を払い、思考を研ぎ澄ますには充分な程の。 宿から教会へ向かうには、一度村の広場へと出、そこからなだらかな丘を登る事になる。 その十数分の道のりを、背中にペーターの体温を感じながら、ゆっくりとディーターは歩んだ。 「ねえ、ディー兄……」 「ん?」 「ディー兄は、人狼じゃないよね……?」 「おう。俺が人狼だったら、レジーナなんて襲わねえよ。俺は、年上は好みじゃねえんだ」 背で、ペーターが小さく笑う声が、ディーターの耳に届いた。 「ディー兄は、年下が好きなんだ。でも、リーザは駄目だよ。僕のお嫁さんになってくれるって約束したもの」 「はは。流石に、子供には手ぇ出さねえよ」 そんな他愛も無い、暖かな会話。これまでに、何度も繰り返されてきた遣り取り。 広場を過ぎ、丘の半ばへと差し掛かって。ディーターは、周囲の異常に気付いた。 丘は静かだった。いや、静か過ぎた。虫の声一つ無い静寂が、周囲を支配していた。ディーターは、この空気を肌で知っていた。 「……ディー兄?」 突然立ち止まったディーターに、背中のペーターが訝しげな声を上げた。 「……ペーター、送ってやれるのはここまでだ。ちょいと、用事を思い出してな」 可能な限り優しく、ディーターは言った。その声から何かを感じ取ったのか、ペーターは静かに地面へと降りた。 「ここからなら、迷わず教会まで帰れるよな。怖いか? 怖いなら、振り向かずに走って帰るんだ」 「僕、怖くないよ……でも、ディー兄がそう言うなら、そうする」 子供ながらに違和感を感じているのか、不安を押し殺した声で、ペーターが答えた。 ディーターは、そんなペーターの頭に手を軽く乗せ、何度か髪を掻き回してやった。 「男の子だな、ペーター。よし、行くんだ。おやすみ、ペーター」 「うん……おやすみ、ディー兄」 軽快な地面を蹴る音と共に、ペーターの小さな身体が走り出した。 闇の中を遠ざかるペーターの後姿を、小さく微笑を浮かべて見送ったディーター。 次に振り向いた時には、その顔からは一切の笑みが消えていた。 「さて……出て来いよ、クソ共。まさか、気付かれてねぇと思う程の間抜けじゃあるまい」 穂が刈り取られた後の麦畑の間を通る、この見晴らしの良い道の何処に潜んでいたものか。二つの黒い影が、ゆらりと姿を現した。 ディーターにとっては幸か不幸か、この日は雲一つのない明るい夜だった。無論、ディーターは暗闇の中での戦いにも手馴れてはいる。だが、相手は半分は獣の化け物。視界が良いに越した事は無かった。 とはいえ、煌々と地上を照らす月は、人狼の力の源でもある。これを殺すには、銀製の武器を用いねばならない。ディーターがもっとも信頼する愛用のナイフは、鉄製の刃だった。 だが。ディーターは、口許に薄い笑みを張り付けた。彼にとって、これは原則の問題だった。相手が、化け物だろうがなんだろうが。舐められて、そのまま引き下がるようでは、他人の上には立てない。 「――来いよ、犬っコロ。薄汚ぇ獣の分際で人間様に楯突こうなんてのが、とんだ間違いだって事を教えてやるよ」 『ガアアアアァァ!!』 ディーターの耳には、言葉として聞き取れぬ咆哮。それと同時に、すぐ目前に獣の血走った赤い瞳。 反射的に抜いたナイフで、頭上に落とされる獣の爪を迎撃し――ディーターは、即座に右へと跳んだ。 それは正しい判断だった。そのまま受け止めようとしていれば、ナイフなど即座に砕け、ディーターの頭部は柘榴のように砕けていただろう。人狼の恐るべき膂力によって。 「っぶねぇな、この野郎……流石に馬鹿力だな、クソ」 続けて放たれた、破城槌の如き拳の連打を掻い潜って、首筋への一撃。それが傷一つ与えて居ない事に舌打ちをして、ディーターは跳び退った。 忌々しい話だった。人狼は、十メートル近い距離を、只一度の跳躍で詰めてみせたのだ。身体能力の差は、ディーターの予想を遥かに超えるものだった。人狼の皮膚に、ディーターのナイフが通用しない事も、全く以って忌々しかった。 だが、一度目にした以上、それはディーターにとって決定的に不利な要因とはならない。この程度ならば、計算の内に組み入れられ、対処が可能であった。そして、武器の問題も対策はあった。 いや、何よりも。 「ハッ……手前等、素人だな?」 ハッタリでも強がりでもない。ディーターの眼には、それは明らかだった。最初の奇襲で、二匹の人狼が連携していれば、ディーターは既にこの世に居なかったのだから。 例え、それが人間と人狼という、絶望的な身体能力の差から来る余裕だったとしてもだ。玄人ならば、相手を仕留め得る機会に手を抜くような事はしない。 それが間違いだ。ディーターは、無抵抗で捕食されるだけの獲物ではないのだから。 「ま、こっちの攻撃が効かないってのは癪なんでな……ちょいと小細工をさせて貰うぜ」 懐より取り出した小瓶。その中身をナイフの刀身へと注ぎ、小さく祈りの言葉を唱える。 二匹の人狼の身体に緊張が走った。聖水に清められ、簡易ながらも聖別された刀身だ。銀製の武器までとはいくまいが、魔に属する人狼に対しては、ある程度の効果を発揮するだろう。その事を、本能から感じ取ったのだろう。 「余裕が消えたか? 獣にしちゃ物分りが良いな。そうだ、此処からは狩りじゃねぇ――殺し合いだ」 先に動いたのは、ディーターだった。裂帛の気合と共に踏み込んで、再び喉元への一撃を放つ。 突然のディーターからの攻撃に驚いたか、人狼は咄嗟に両腕で首を庇う。その腕に、ディーターのナイフが赤い裂け目を作った。 『ギァッ!?』 悲鳴を上げて飛び退いた人狼に、ディーターはニヤリと笑みを浮かべた。なるほど、聖水は人狼にしっかりと効くようだ。これなら、教会に布施をしてやってもいい。 人間に傷を負わされたという衝撃ゆえか、目に見えてそちらの人狼の動きが鈍くなる。防御を重視した構え――いや、これは。 「怯えてんじゃねぇよ、犬っコロ!」 横合いから、肩口を狙って袈裟に振り下ろされた爪を、ナイフの刃で滑らせるように受け流す。 正面の人狼が横薙ぎに振るった豪腕の下を、豹の如きしなやかさで潜り、すり抜けざまに、脇腹を切り裂く。 新たに増えた傷を抑える人狼を無視し、低姿勢のまま急反転して、片割れのもう一匹へと突進する。地面スレスレを滑るように走るディーターに、人狼はその強靭な脚から繰り出されるローキックで迎撃を図った。 「獣が蹴りなんざ使うんじゃねぇよ……!」 地を這うような低い体勢から、ディーターは跳んだ。土煙を巻き上げるほどの威力の蹴りを飛び越えて、人狼の紅く光る瞳に向けてナイフを突き出す。その刃は、咄嗟に首を捻った人狼の頬肉をごっそりと削った。 ――なんだかんだと言っても、相手は二匹。受けに回っては、力で押し切られるだけ。そう判断しての攻勢。それは、間違いではなかった。幸い、技量では圧倒的にディーターが勝っている。戦いの主導権はディーターにあった。 ここまでを見れば、ディーターが優勢と言っても良い。だが、内心でディーターは焦っていた。変化はディーターの攻撃が、人狼に傷を与えてからだ。明らかに二匹の人狼は慎重になっている。急所を庇い、致命傷を受けぬように警戒していた。 それは裏を返せば、致命傷さえ受けねばそれで良いという事を示していた。事実、最初にディーターが付けた腕への傷は、既に血が止まっている。心臓か、首か。急所を突かねば、ディーターのナイフでは、人狼は殺せない。 だが、ディーターは違う。人狼のような、強靭な肉体も生命力も持っていない。何処に攻撃を受けても、それは即ち致命傷となり得る。疲労も、溜まっていく。戦いが長引くほどに、ディーターは不利になっていくのだ。 「遠慮しねぇで、とっとと死んどけよ!」 ――存外に、終わりは早かった。いや、終わりとは常に、唐突にやってくるものか。それも、本人の意思に関わらず。 僅かに、ほんの僅かだが、ディーターの突き出したナイフに、過剰な力が込められた。それ自体のみならば、大した事ではなかった。 問題は、人狼がそれを防ぎも、避けもしなかった事。そのナイフは、人狼の胸に深々と刺さったのだった。そう、即座に抜くのが困難な程に。 勿論、人狼はそれを狙ったわけではない。単に、防御も回避も間に合わなかっただけだ。 本来ならば、単なる胸部への一撃で留まっただろう。だが、焦りの所為か疲労の所為か、無駄な力の加わったナイフは、一撃離脱が困難な深さにまで突き刺さった。 人間相手ならば、それ自体が致命傷となる。それならば、何の問題もなかったのだが――相手は、人狼だった。 ナイフを抜く為の数瞬の遅れが、ディーターを人狼の攻撃圏内に留める事となった。 お返しとばかりに、鋭い爪を揃えた貫手が、矢のような勢いで突き出される。 それを、ディーターは僅かに右に跳ね、紙一重で避けた――つもりだった。 いや、ディーターは貫手を完全に避けていた。だが、その貫手から流れるように横一文字に振るわれた爪までは、回避し得なかった。 貫手は点だが、そこから派生する横薙ぎは線の攻撃だ。ナイフを用いた街の喧嘩においても、突きを避けられてからの横撃への連携は、定石のひとつといってもいい。ディーターは、自らの迂闊さを呪った。 「が、はっ……!」 腹が裂かれる、ぞぶりという感覚。体内に溢れる、猛烈な熱さ。それに数瞬遅れて、神経を直接捻り回されているような激痛が、ディーターを襲った。 ディーターの口元から、ごぼりと血が逆流した。 「あー……クソ、しくじった……か」 裂かれた腹を左手で押さえながら、ディーターは呟いた。 押さえた端から血が噴出し、ピンク色の腸が腹圧で飛び出している。確かめるまでもない。これは、紛う事なき致命傷だった。 外気の冷たさに、自分の腹から湯気が上がるという光景。滅多に見られない光景だろう。こんなものを見たい人間が居るかどうかは、別として。 急速に失われていく体温を自覚して、自分はもう助からないと、ディーターは冷静に判断を下した。 人狼が止めを刺しに来ない事が、何よりの証拠だった。 黒々とした剛毛に覆われた、巨大な人狼の体躯は、いつの間にかディーターの視界から消えていた。 「……畜生め。酒がねぇのは、辛いな」 荒い息を吐いて、農具を置く小さな小屋の壁に寄りかかり、地面に腰を下ろした。 無様に地面にうつぶせて、死にたくはなかった。 ――いや。普段、自分が教訓としている事を破ってこの結果。充分過ぎる程に、無様だ。 ディーターは、口を酸っぱくして自分に従う者達に教えていた。やるのなら、一撃で確実に。それを逃したら、即座に逃げろと。 最初に与えた傷が、致命傷でなかった段階で逃げるべきだったのだ。人狼は明らかに腰が引けていた。そうすべきだったのだ。 「あん……?」 既に、ディーターの意識は朦朧としている。腹を裂かれてから、どの程度の時間が経っているのか。 次に意識を失えば、そのまま死に到るだろう。既に、痛みも寒さも感じない。ただ、ぼんやりとした感覚に乗って、浮いているだけだ。 その霞んだ視界に、一人の見知った顔が映し出された。 「んだよ、お前……なんで、こんなとこに……危ねぇから、とっとと……」 ――妙な音だな、とディーターは感じた。 妙にこもった、何かが砕ける音。重い、水気のある音。 それも、その筈だ。その音は、ディーターの体内から発された音だった。 正確には、ディーターの心臓が背後の壁ごと砕かれた音だ。 痛みは感じなかった。当然だろう。身体を腕で貫かれたのだ。これで痛みを感じていれば、発狂している。 尤も、心臓が潰されては、発狂しまいが正気であろうが、保って数十秒なのだが。 「……そうか、お前が……か……」 もう一度。 似たような、しかし先程よりも硬質なものを砕く音が、周囲に響いた。 今度の音は、ディーターの耳には届かなかった。 何故なら。通常、頭の両側に付いているべき耳は、片方は半ば潰れて壁に貼り付き、もう片方は数メートル離れた地面へと飛び散っていた。 尤も、本来の場所である頭部自体が消失していては、何も聞こえる筈もなかったが。 その、ディーターだったものを前にして。一つの影は、しばらくのあいだ、佇んでいた。 影が食事をはじめたのは、ディーターの残骸が、温もりを失ってからだった。 |
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