満月の夜に捨てる嘘 オットーの朝は早い。 彼は、陽の昇る数時間前には目を覚まし、仕事に取り掛かる。 オットーは、この村に一つしかない店――パン屋の店主である。歳は二十三。職人としては若過ぎるが、それには無論、訳がある。 彼の家は、オットーの曽祖父の代からこの村でパン屋を営んできた。 オットーの母親は、オットーが物心付く前に死んだ。父親は、五年前の流行病で他の多くの村人同様に死に、彼はわずか十八の歳で店を受け継いだ。 村にとって幸いだったのは、オットーの父親が、頑固な職人気質の男だった事だ。オットーが幼い頃から、パンを焼く為に必要な全ての技術をオットーに叩き込んでいた。お陰で、店主がオットーに代わった後も、村は日々のパンに困る事はなかった。 だが、御多分に漏れず、オットーはそんな父親が嫌いだった。小麦粉やライ麦粉の配合を覚える事よりも、ヤコブやその妹のパメラ、他の子供達と遊ぶ方が楽しかったのだ。 それでも、父親が死んだとき、オットーは上平の一つも漏らさずに、パン屋を継いだ。反抗はしていても、彼にもまた、父親と同じ職人の血が流れていたのだ。 「あれ……?《 パメラなどに言わせれば、『羨ましい髪質』である殆ど黒に近いダークグレーの髪を掻きながら、オットーは異常に気付いた。 普段起きる時間よりも、随分と早い。窓を隔てた闇は、見慣れた早朝のものではなく、深夜のそれであった。 余程の事が無い限り、オットーの生活パターンは変わらない。幼い頃からの父の教育が、身体に染み付いているのだ。 ヤコブなどに付き合って酒を飲んだ翌日でも普段通りに目を覚ますし、体調が多少悪くても翌日の仕込みを終えるまでは眠らない。 だというのに、それが今日に限って。 「……ああ。これか……《 得心して、オットーは一人嘆息した。 闇の奥から響いてくる、人狼の遠吠え。今夜もまた、村人の誰かが襲われたのだろうか。 誰が襲われたのだろうか――オットーは、人狼の立場に立って考えた。 人狼達からは、昨日のヨアヒムとジムゾンの対立によって、どちらが本当に人狼を見分ける力を持っているのか、判明した事だろう。 ならば、その人狼にとって脅威となる人間を狙うだろうか。 ……いや、元々どちらかが人狼の可能性も充分にある。その場合は、例え脅威であっても襲うまい。残った方が贋物と証明するようなものだ。 では、どちらが本物かを有耶無耶にする為に、カタリナかニコラスを襲うか。 それも否。村人からみれば、二人のいずれかが人狼である可能性はある。わざわざ、スケープ・ゴートを減らす必要はない。 ならば。襲われるのは、既に人間と判っているレジーナだろうか。その可能性は高い。 そこまで思考を巡らせて、オットーは一つの考えに思い至った。 「――待てよ、それじゃ……次は僕、か?《 ――それは十分に有り得る話だった。正体を調べられることになったオットーは、今日殺される可能性もあった。レジーナの例がある。 人狼には、オットーが人狼でない事など、調べるまでもなく判っているのだ。人間と確定する村人を減らす為に、オットーが狙われても、おかしくはなかった。 オットーは、じくりと冷や汗が浮かぶのを感じた。と共に、上謹慎極まりないながらも、自分以外の人間が襲われたであろう事を、神に感謝した。 その直後で――はたと、思い当たった。 「……僕が、人狼にされる可能性も……ある、のか《 昨日の、ヨアヒムに人狼として告発された、アルビンの姿が目に浮かんだ。 必死に自分の身の潔白を説き、ヨアヒムを贋物だと主張して、それでも結局は、アルビンとジムゾンを除いた村の総意によって吊られていった。 オットーも、アルビンの処刑に賛成していた。だが、それはヨアヒムを信じたからではなかった。 人狼という結果が出た以上は、一応は処刑した方が安心だからだった。 恐らくは、処刑に賛同した村人の大半は、そのような気持ちを持っていただろう。 オットーは、滲みだす恐怖とともに、後悔した。可能ならば、その場で神に懺悔していただろう。明日は我が身とは、よく言ったものだ。自分が、取り敢えずの安心の為に、処刑されるかもしれない。それを、悟ったのだ。 「そうなったら……僕に、なにが出来るっていうんだ……《 半ばの絶望とともに、オットーは呟いた。そう。ただの人間であるオットーに出来る事は、そう多くない。 人狼の正体も見極められず、死者の正体も調べられず、まして人狼の襲撃を跳ね除けるような力も無い。 それならば……せめて、自分に出来る事をしよう。 ベッドから腰を上げて、オットーは工房へと向かった。会議の為に集まる村人達に、美味しいパンを提供する位の事は、自分にも出来るのだから。 5日目昼 変わらぬ過去 陽が、南の空に昇った頃。焼き上がったばかりのパンの山を大きな籐籠に入れて、オットーは宿へと足を運んだ。 丁度、小腹の空いてくる時間帯。差し入れのタイミングとしては、完璧のはずだった。 「おはようございます。今日は、昼食にパンを焼いて……《 扉を潜った瞬間に、自分に集まる視線。疑惑と恐怖。そして、確実に混じっているだろう人狼の悪意。 卓に顔を伏している、親友の妹。重く苦々しい表情で、額に手を当てている宿の主人。 それが意味するところは、つまり―― 「……ああ。僕が人狼だと――《 平坦な声で、オットーは呟いた。問い掛けですらない。答えは、判っていた。レジーナが重く頷くのを、確認するまでもなかった。 「どちらが?《 上自然な程に落ち着いた、普段通りの声だった。今朝の内に、想定していた状況だからだろうか。 ――いや、それは違う。ある程度の心の準備があったとはいえ、こうも、落ち着けるわけがない。 「私ですよ、オットーさん。貴方が人狼だったというのは、残念です。これから、貴方のパンが食べられなくなるなんて《 「――そうですか《 穏やかに答えて、オットーは僅かに口元に微笑を浮かべた。 それに気付いたジムゾンが、訝しげに眉を寄せた。 そう。真実が――明確な敵が見えたのならば、怯える必要はない。 疑心暗鬼の泥沼から抜け出した先は、処刑台に続く階段の下であると同時に、人狼と矛を交わせる戦場でもあった。 十中八九、自分は処刑されるだろうが――後に残る村人の為に、可能な限りの情報を引き出して、遺そう。オットーは、覚悟を決めた。 それが、処刑してしまったトーマスとヴァルターへの義務であり、僅かばかりの償いにもなろう。 決意を胸に、顔を上げた。 「あれ?《 全員の顔を見渡して、オットーは違和感に気付いた。自らの親友の姿が、そこには欠けていた。 背筋を、嫌な汗が伝った。決意が、崩れ落ちそうになった。 まだ、宿に顔を出していないだけかもしれない。実際、カタリナやヨアヒムの姿も、この場にはまだ居ない。だが、パメラはいた。 「……パメラ、ヤコブは《 自らを誤魔化す事は、出来なかった。オットーは、問い掛けた声が震えていることを、自覚した。 ――ヤコブが、今のパメラを一人にするなどと。そんなことは、有り得ない。そう、知っていた。 「……帰ってきて、ないよ……オットーさんの処に泊まったんだと、思いたかったけど……《 「……そうか……《 内臓が氷の手で締め上げられるような感覚が、じくじくと広がった。 胸の中心に小さな穴が空き、それが秒刻みに拡大していく事を、オットーは自覚した。唯一無二の親友は、還ってこない。 「おや。御自分で手に掛けたのではないのですか――親友の血を啜り、肉を噛み千切ったのではないのですか?《 親友との過去に想いを馳せ、感傷に浸る暇もなく。眼に愉悦の光を浮かべたジムゾンが、哂った。 オットーが激発しなかったのは、ニコラスが先に口を開いたからに他ならなかった。 「贋者が、吠えるな。あの行商人は人狼だった……あんたの言葉は、神の御告げという吊を借りた妄想か、人狼の虚言かだ《 冷静に、だが辛辣な言葉の針をジムゾンへと投げ掛けたニコラスが、オットーに咎めるような視線を向けた。 感情的になって、得る物など何もない。それは、オットーもこの数日の経験から理解していた筈だった。 注意を喚起してくれたニコラスに、オットーは密かに感謝し、安堵した。 つい数日前までは見ず知らずであった人間に対して、細かく気を配れるような人間は、そう多くはない。 それが、相手の信用度が互いの生命に直結するような状況であってもだ。 その一点において、この旅人は共同戦線を張る仲間としては、中々に信頼のおける相手であるようだった。 「馬鹿を云ってはいかんな。神は常に信じる者を救い給う。その御言葉を妄想とは、ちと聞き捨てならないの《 「神とやらも、そうまで信じられれば傍迷惑だろうな。神を信じていれば、人狼の牙を逃れられるとでも云うのか? 救いを求めれば、首を締め付ける縄から抜け出せるとでも? それこそ、馬鹿を云うな。 人を殺すのも、救うのも、全て其々の意志を持った生き物だ。人の運命を決めるのは、神などではない《 モーリッツの一般論を、ニコラスは切って捨てた。 吐き捨てたその声は、熱心な信者であるモーリッツへの呆れと嫌悪感を、隠そうともしていなかった。 これが平常であれば、ニコラスは神を信じぬ異端者として非難された事だろう。 だが――神が万能であれば、何故に人狼などという異形が、この村を襲ったのだろうか。その疑問は、誰の胸にもあった。 「……ま、ヨアヒムとカタリナを待つとしようじゃないか。 ニコラスが、アルビンが人狼だったと言ってる以上、神父の主張を鵜呑みにするわけにもいかないからね《 レジーナの鶴の一声。レジーナは常に冷静で、全体を見渡している。 人狼が、レジーナを早期に襲おうとした理由を、生き残っている村人達は改めて認識した。 険悪になりかけた議論は、それで一時の中断に入った。 丁度、昼食時である。レジーナの手で、タマネギ入りの簡素なスープと、ザワークラウトが手際良く並べられていった。 それは、異様な食卓であった。 目の前のスープを黙々と飲み干し、添えられたザワークラウトを口に放り込んで、殆どの人間が席を立った。 沈黙に耐え兼ねたのか、気晴らしの散歩か、それとも食事を自宅で取る為か。 オットーの差し入れたパンの山に手を付けた者は、やはりと言うべきか、ニコラス一人であった。 レジーナでさえも、食事の用意はしたものの、本人は卓に着かず、カウンターで水を口にしただけだった。 「ふん。もし俺達が人狼だとしても……毒なんぞ使ったら、後で喰えなくなるだろうにな。 喰いもしない相手を殺すのは、人間だけだ――ああ、人狼は半分は人間なんだったな《 所在なさげに立っていたオットーに肩を竦めてみせて、ニコラスはパンを噛み千切った。 オットーはそれに苦笑で返して、傍の椅子に腰を下ろした。 ニコラスの言葉は否定のしようもなかったが、自分が人狼だという前提で思考する事は、仮定であっても、恐ろしかった。 「そういえば……どうして、アルビンさんが人狼だったと? 普段は人間と全く変わらないんですよね、人狼っていうのは……《 今度は、ニコラスが苦笑する番だった。 医術を学んだニコラスの目からすれば、それは迷信でしかないようだった。 「まあ、外見はな。だが、月の下で獣に変わるような化け物が、人間と同じ身体の作りをしているワケがない。 俺は医術を完全に修めたワケじゃあないが、それでも人間との違いは歴然だった。 まず尾てい骨が人間より数が多く、消化器官の幾つかと、口蓋の……《 オットーが、顔に疑問符を五・六個も浮かべている事に気付いたのか、ニコラスは弁を止めた。田舎の小村のパン屋に、人体の構成などの知識があろう筈もなかった。 ニコラスはどう説明したものかと思案した様子で、少し悩んだ末、懐から一つの紙包みを取り出して、卓の上に置いた。 無言の促しに応じて、オットーは包みを解いた。包まれていたのは、赤黒い痕が僅かに付着した、幾つかの白い欠片だった。 「……なんです、これ?《 「歯と骨だ、人間の。アルビンといったか。奴の、胃袋から出た。二人の犠牲者の、どちらのものかは判らんがね《 つまり、ゲルトかディーターの身体の一部。それをまじまじと見詰めたあと、オットーは静かに瞑目した。 それが二人のものであると証明する術はないが、普通の人間は余程の飢餓状態でなければ、人肉など食べない。 ましてや、歯や骨など――ならば、それを村人の前に証拠として差し出せば、全ては解決するのではないか? そのオットーの思考を見透かしたように、ニコラスが言った。 「……ま、村人全員の眼前で取り出しでもしない限り、俺が仕込んだのだと言われて終いだろうがね《 「ああ……そうですね《 「そういうこった。隣人に疑われるのは辛いだろうが……ま、一緒にあの神父の化けの皮を剥いでやろうじゃないか。 ……取り敢えず、ごちそうさん。あんた、良い腕してるぜ《 オットーの肩を、ニコラスが軽く叩いた。笑顔を浮かべたつもりだが、それが笑顔になっていたかどうか、オットーは自信がなかった。 「さて、と。俺は腹ごなしに、少し歩いてくるが……あんた、あの娘の兄貴とは親しかったんだろう? 声を掛けておいてやりな、随分と参ってる。まあ……こんな状況じゃ、無理もないんだが。 ……生き残ったって、心がいかれちまったら意味がないからな《 去っていくニコラスの後姿に、オットーは溜息を吐いた。 既に過去形にされてしまった、ヤコブとの関係。目を閉じれば、幾らでも過去の日々を浮かべる事が出来る。 あの川縁で初めて出会った日から、つい昨日に共にした昼食の光景まで。その全てを鮮明に思い出す事が出来る。 だが、オットーはそれをしなかった。過去の記憶に浸るより、親友の妹が抱いている苦痛を優先すべきだった。 それに――目を閉じてしまえば、涙を抑えられる自信が無かった。 「――えっと……その、パメラ。いいかな?《 伏した顔が僅かに傾き、組んだ腕の合間から、赤く腫れた目許が覗いた。 その瞳には、普段の快闊さは微塵も見られない。涙と共に、流れ去ってしまったのだろうか。 そんなパメラの姿は、幼い頃の彼女を知るオットーにとっては、認め難いものだった。努めて、オットーは、笑顔を浮かべた。 「……なんですか?《 「ん……僕さ、神父様に人狼だって云われたよね?《 パメラの肩が大きく震えた。それは、パメラにとって最悪の仮定のはずだった。 好意を寄せる幼馴染のヨアヒムと、兄の親友であるオットー。よりによって、その二人が人狼であり、兄を喰い殺したという悪夢。 そして、ジムゾンの力が本物であれば……その悪夢は真実である。 だが、オットーは、敢えてその最悪を口にした。それが、一番よいと思ったのだ。たぶん。 「僕が人狼じゃない事は、証明出来ないし……パメラに疑われても、仕方ないと思うけど。ひとつだけ、信じて欲しくてさ《 疑問符を浮かべるパメラに構わず、オットーは続けた。 「ヤコブは……ヤコブは、僕の親友だ。……それだけは、疑わないでくれ。 僕が人狼だとしても、それは変わらない事実だから……君達だって、そのハズだよ《 『君達』が、自分と誰の事を指すのか。それが解らないほど、パメラは愚鈊ではない。 オットーの云わんとする処は、パメラにも理解出来た。その意図も。 例え、相手が人狼であっても。これまでは親しく接してきたのだ。 人狼か人間かはさておき、その、"これまで"は信じてもいい。現在がどうであろうと、過去の温かな思い出までも、悲哀と憎悪の炎で、凍り付かせてしまうことはない。 「……私、ヨアヒムに酷いこと……《 「ヨアヒムが来たら、一言掛けておいた方が良いかもね。随分と参ってたようだし……《 そうして、オットーは溜息を吐いた。 これでは、ヤコブの事を過保護と笑えない。自分もつくづく、面倒見が良い……と。 「……まあ。ヨアヒムが立ち直ってくれないと、僕も困るからね《 照れ隠しではあるが、それは全くの事実である。 ジムゾンが人狼と思われる以上、オットーは同様にジムゾンと対立する立場であるニコラスとヨアヒム、彼らと共に戦わなければならない。 ヨアヒムもが自分を人狼と云う可能性は、オットーの想定にはなかった。 流石に、二人ともが人狼である――ないし、判定を間違える――とは、思わなかった。そうなれば、オットーに出来ることは幾らもない。 「さ、折角レジーナさんが用意してくれたんだし、食べなよ。 ああ……良かったら、パンも食べてね。味は保証するからさ《 そうして、オットーは卓に戻った。 山のように余ったパンを横目に、言い残した言葉は。どこか、空しく散っていくような気がした。 「……オットーさん《 冷めたゼンメルを千切る手を止めて、オットーは振り返った。 まだ、涙は乾いていないものの。真っ直ぐに立つパメラの瞳には、光があった。 それは痛々しい光ではあったが、無気力であるよりは幾らも良かった。 「兄さんを……探すの、手伝ってくれますか?《 ――この娘は強いな、と。オットーは、心底から思った。 見なければ、見つけさえしなければ――村から逃げて、何処かで生きていると。そう自分に信じ込ませる事は出来る。 けれど、死体と対面してしまえば。それは、誤魔化しようのない現実となってしまう。 その覚悟が、パメラはもう出来たのだろう。自分はまだ、出来ていないのに。 「ああ……うん。放っとけない、よね《 頷いて、オットーはゆっくりと腰を上げた。 オットーにはまだ、ヤコブの死体を直視して、平静を保てる自信はなかった。 それでも、こんな状況で、一人で出歩かせる訳にはいかなかった。 幾ら人狼の活動時間が夜だとはいえ、若い女性を一人殺すことなど、人間であっても容易なことだ。 オットーは、もう一度、小さく頷いた。ヤコブの代わりに、パメラを護らねばならなかった。少なくとも、パメラがヨアヒムを信じられるようになるまでは。 オットーは、ヤコブの死と向き合う覚悟を固めていたが、結局のところ、それは意味をなさなかった。 三十分ほどをかけて、二人は、宿からヤコブとパメラの家に向かいながら、周囲を調べて回った。 村を西から南に貫く目抜き通りに並んだ家々の周囲、空き家の中。 道から外れた草むらや、木々の間。果ては村外れの川――ヤコブとオットーが、親友となった場所――まで調べたものの、ヤコブの遺骸は発見出来なかった。 「ここでもない、か……《 「……宿から家の間じゃ、ないのかな。兄さん、何をしてたんだろ……《 「そうだね……こんなときに、真っ直ぐ帰らずに、寄り道をするとも思えないけど《 ディーターのように、子供たちを教会まで送ったということもない。ディーターが無惨な姿で発見されてから、ジムゾンは、自分の両腕が届く範囲より遠くへは、ペーターとリーザを離さないようにしていた。 もっとも、オットーは、内心、別の可能性を思い浮かべていた。人狼だって、食事――そう、食事は、落ち着いて食べたいはずだ。いつ誰が通るかも判らない道端で、ではなく、殺したヤコブをどこかに運び去って、喰らったのではないか。 それは、ヤコブの遺骸が見当たらない理由としては説得力のある仮説ではあったが、オットーは、それを口に出さないだけの分別を備えていた。唯一の肉親だった兄を食料扱いにした考察を、有り難がって聞くような妹は、滅多にいない。 もっとも、オットーの配慮が、パメラにこのうえ余分に悲しませないようにという意図のものであったとすれば、基本的にそれは、無駄な努力といえた。 既にパメラは、これ以上ないほどに悲しみを抱えていたし、この数十分のあいだに、自分を更に追い詰める事実にと気付いてしまっていた。 いや、好んで気付いたのだといってもいい。自らを責めたがるのは、古来、悲嘆にくれる人間に共通する悪癖だった。 パメラも、その例外ではなかった。橋から引き返し、幾つかの民家を過ぎて。オットーの隣を歩いていたパメラが、小さく呟いた。 「――……いんです《 ともすれば、聞き逃してしまいそうな。そんな、細い声。洟をすする音が、オットーの耳に届いた。パメラは、地面以外の何かを視界に収めることを拒否するように、俯いていた。 「……私が、いけないんです。宿にも戻らないで、家でずっと《 光るものが、地面に落ちた。それに気付かない振りをするには、オットーは、善人でありすぎた。ただ、咄嗟に慰めの言葉を思い浮かべることができるほど、世馴れてもいなかった。 「だから、兄さん、一人で帰って……それで、きっと。だから、私の。私のせいで《 「……そうじゃない。パメラの、せいじゃあない《 パメラの言葉には、一面の真実はあった。であるからこそ、オットーはそれを否定しなければならなかった。親友の妹に、その親友の死を負わせるつもりはなかった。 無論、相応の事情はあった。オットーの考えでは、責を負うべき者がいるならば――当然、人狼を除いて――それは、オットーであるはずだった。オットーもまた、悲劇にあたって己を責めるという伝統的悪癖とは、無縁ではなかった。 「僕が、ヤコブを待っていれば良かったんだ《 陰鬱な声で、オットーは呟いた。 昨晩。日が落ちて、アルビンの処刑が終わった後。ヤコブを含む幾人かは、宿に残ってレジーナが無料で供する食卓を囲んだ。 金銭的に余裕のないヤコブが、夕食を辞退するはずはなかった。それはいい。問題は、オットーが席に付かずに、自宅に戻った事だった。 宿を飛び出したパメラは自宅に戻っていたし、ヨアヒムも投票を機械的に終えると即座に家に帰っていた。 即ち、広場から南に下る道を通るのは、オットーとヤコブだけだったのだ。そのオットーが先に帰ってしまえば、当然、ヤコブは一人で家路につくことになる。 勿論、オットーとて一人で帰ったのではあるが、まだ夕陽の残照が残るあいだと、太陽の落ち切った後の暗い悪意の蠢く夜では、全くの別物であった。 「――くそっ! なんだって、僕は――!!《 オットーの拳が、たまたま傍に立っていた、哀れな樹を打った。驚いたように、パメラが顔をあげた。 鈊い痛みとともに、破れた皮膚の下から、赤い血が滲む。二度、三度と、オットーは拳を堅い樹皮に打ちつけた。 「っ、止めて下さい、手が――!!《 制止の声も無視して、一際強く、オットーは拳を振るった。堅い樹皮に叩き付けた拳から、血が垂れる。まだ、生きている証。地面に落ちる紅い雫に視線を落として、オットーは呟いた。 「……どうせ殺すのなら、僕を殺せば良かったんだ《 「え……?《 「僕が死んだって、悲しむ家族も泣く人間もいない。僕が、ヤコブの代わりに殺されていれば――《 己を嘲るかのように歪められた唇が吐き出したのは、自らを呪う呪詛だった。苦痛と悲哀と悔恨、無力な自分と人狼への憎悪。それら全ての詰まった声だった。 しかし、オットーは、それを最後まで口にすることは出来なかった。親友の妹が、オットーの胸元に飛び込んできたからだった。 困惑と混乱の声を、オットーは洩らした。細く柔らかな身体と、甘い髪の香り。触れてはいけないはずのもの。 「……パメラ?《 「私が――私が、泣きます。兄さんだって、絶対――……《 パメラの言葉は、きっと、事実に違いなかった。いま、オットーに許されたことは、ただ、自分が口にした言葉の愚かさを噛み締めるだけだった。 「兄さん、オットーさんのこと、一番の親友だって……オットーさんの事を話すとき、兄さん、いつも凄く楽しそうだった。 それなのに……兄さんが泣かないわけ、無いじゃない。 ……ううん、兄さんだけじゃない。いつも優しくて、気にかけてくれて……私だって、オットーさんが死んじゃったら、すごく悲しいよ《 オットーの胴に回された腕に、微かに、力が込められた。それを誤解するほどに、オットーは愚かではなかった。もっとも、この場合は愚かであったほうが良かったのかもしれないが。 「オットーさん……私達、そんな、薄情者に見えてたのかな? 血が繋がってなくたって、私と兄さんにとってオットーさんは家族も同然だった――……それじゃ、足りないかな……?《 「……優しいな、パメラは。僕は、人狼かもしれないのに《 「人狼だって、兄さんと親友なのは変わらないって……自分で言ってたじゃないですか。 だから、私にとっても……オットーさんは、オットーさんです。親切で、大人びてて、格好いい……オットーさんです。だから……《 それには、返す言葉もなく。どこかおっかなびっくり、己の腕をパメラの背に回し。ほんの少しだけ、力をこめた。 一瞬、パメラが顔を上げた。その瞳は、既に涙に濡れていた。オットーは、ただ、小さく首を振るだけしか出来なかった。ヤコブのことは、もう、誰のせいでもないのだと。 幾度か、洟をすする音がした。それはすぐに、泣き声へと変わっていった。 立ち直ったかのように見えていても、それは精一杯の無理をした虚勢であったのだろう。それも、無理はなかった。パメラは漸く、二十の歳を数えたばかりだのだから。 兄さん、兄さん、と。嗚咽を漏らし、泣きじゃくるパメラを相手に、オットーが出来る事は少なかった。 血の滲んでいない左手で、その頭をゆっくりと撫ぜてやるのが、精一杯だった。幼い頃、転んで泣いていたパメラに、ヤコブがそうしていたようにと。 「……パメラ、僕は《 オットーは、その先を口にはしなかった。どこまでいっても、自分は、パメラにとって兄の親友でしかないのだと。 |
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