満月の夜に捨てる嘘


 入口の木扉と同様に飴色の、足を運ぶ度に微かな軋みを上げる階段。
 カウンターの、向こう側。仕事場の奥に僅かに見える暗い階段は、子供の頃、何かしら秘密めいたものに思えていたものだった。
 ともすれば、足を踏み外しそうになる。その暗く狭い階段を、オットーに続いて上っていく。
 一段、また一段と上るたびに、焼けた小麦粉の香が染み込んだ空気が、希薄になっていく。
 それがまた、これから未知の場所へ立ち入るのだと、そのようにパメラに実感させた。
 パメラは、この階段を上るのは初めてだった――兄のヤコブでさえ、パメラの知る限りでは、オットーの部屋に入った事はない筈だった。
 オットーの父が健在であった頃は、遊びに行くなど出来るはずもなかった。
 五年前の流行病でオットーの父が亡くなった後も、オットーはヤコブの家を訪ねる事を好んでいた。
 ヤコブは常にオットーを歓迎したし、パメラも同じだった。
 オットーが持参する、酒や肴の御相伴に与れるのは勿論のこと。
 流行病で両親が死んで手広になった家が、僅かでも狭まるのが嬉しかった。それは、恐らくヤコブも同様だっただろう。
 それに、優しく落ち着いた物腰で、実際の年齢以上に――自らの兄のほうが、年上のはずなのだが――大人びて見えるオットーに対して、仄かな恋心を抱いていた時期もあったのだ。
 病弱で頼りなげだったヨアヒムに、裕福な村長の息子として溺愛されて育ったゲルト。
 彼らと比較すれば、職人の息子として育てられたオットーの精神年齢は、実際のそれ以上に突出しているように思えたのだ。
 その慕情は、ヤコブに紹介されてオットーと出会ってから、ディーターという強烈な個性が八年前に彼らの前に現れるまで、パメラの中で続いていた。
 しかし、村に戻った当時、既に海千山千の古強者であったディーターが、十歳近くも年下の少女を、恋愛対象とする筈もなかった。
 そうして行き場を失った青春の熱は、街に越してパメラの目の前から消えていたヨアヒムへと向かったのだった。
 村へと戻ったヨアヒムは、パメラの記憶の中にあった、病弱で気弱で、万事控えめな少年ではなかったのだ。
 親元から独立し、文字の読み書きを完璧に覚え、手に職を持って一人で立派に生活していた。
 その姿は、パメラの意識を、幼馴染のひとりから、ひとりの異性に対するものへと変えるには、充分過ぎるものだった。

 ――とはいえ。過去の記憶が、消えるわけではない。もうひとりの兄のように思っているとはいえ、かつては、恋愛感情を抱いた相手である。
 それに、つい先程までオットーの腕の中で散々に泣き、子供のようにあやされていた。
 その気恥ずかしさを誤魔化すように、大丈夫だと渋るオットーを半ば強引に押し切って、怪我の手当ての為に上がり込んだのだった。


5日目夜 飴色の記憶


「……ま、ここが僕の部屋《

 ふいと振り返ったオットーが、軋む木扉を必要以上に静かに開けた。
 正面には大きな窓があり、差し込む光が逆光となって、オットーの表情を隠した。

「へえ……サッパリとしてますね、なんだか《
「そうだね《

 素っ気なく答えて、オットーは戸棚に向かった。薬箱は、その戸棚にあるのだろう。
 その中身を覗きこんだオットーが、眉を顰めた。
 薬箱を卓に降ろして、再びオットーはパメラの側に顔を向けた。

「まあ……取り敢えず、傷を洗ってくるね《

 無事な方な手でパメラに椅子を勧めると、オットーは階下に向かった。
 それには腰を下ろさずに、パメラは部屋を見渡した。
 小さな卓と、幾つかの酒瓶が並んだサイドボード。それに、クローゼットとベッド。その程度だった。
 間取り自体はさして広くはないが、配置された家具の少なさが、その部屋を必要以上に広く見せていた。
 何となく、オットーが家に人を招かない理由が、理解出来た気がした。
 ここには、温かで幸せな家庭の記憶はない。ここにあるのは、厳しい修行の記憶であり――職人が育つ、住み込み寮の空気だった。
 つまるところ、ここはオットーにとって自室ではなく、仕事場の一部でしかないのだ。
 自分の仕事場に、友人を招く人間はいない。そういう事、なのだろう。

「お待たせ……あれ、座れば良かったのに。遠慮しないでいいよ《

 大きく軋んだ扉の音が、パメラの意識を引き戻した。
 右拳に白い布を当てて、オットーが戸口に立っていた。傷口を押さえた布には、僅かに朱が滲んでいる。

「……診ますから、座って下さい。それ、結構ひどいですよ《
「そうだね、御願いするよ。流石に、ちょっと痛いかな《

 それはそうだろう。あれだけの事をして、痛くない筈がない。骨に罅がいっていても、驚きはしない。
 溜息を吐いて、差し出された手を調べた。白いけれど、存外に硬い手。
 ザラついた木の皮に、何度も叩き付けた拳は、下ろし金を掛けたように皮が抉れていた。軽く力を加えると、オットーが小さい悲鳴を上げる。

「うーん……折れては、ないみたいだけど……ニコラスさんに詳しく診てもらった方が良いですよ。
 一応、包帯を巻いておきますから……薬、なにかありますか?《

 結局のところ、傷を診るといっても、パメラにできるのはその程度のことだった。立ち上がって、薬箱の蓋を開ける。そこではじめて、オットーの先程の表情の意味を理解した。
 その薬箱の中身は、大半を飲み薬が占めていた。それも、相当に古い。こんなものを飲んだら、薬どころか毒になるのではないか。そんな印象を受ける程だった。唯一、外傷に使えるものは包帯くらいのものだったが、年代物のそれは、僅かに変色していた。

「……オットーさんも、ひとり暮らしの男なんだって、実感しました《

 ヨアヒムのところも、似たようなものだった。普段使わないものは、ずっと放置されたままになる。
 溜息を、ひとつだけ吐いて。パメラは、手当のために動きはじめた。黄ばんだ包帯を何周か巻き取って、漸く本来の色が見えたところで、千切って捨てる。応急手当ということで、布の上からそのまま、白くなった包帯を巻き付け、結ぶ。
 端を縛る際に、僅かにオットーが呻いたが、それを丁重に無視して、パメラは簡単な手当てを終えた。
 やや上恰好ではあるものの、それは充分に、傷を押さえる役目を果しているといえた。

「ありがとう……だけど、もう少し優しく扱ってくれると助かったな……《
「……自業自得でしょ、何言ってるんですか《

 オットーの向けた視線は、心なしか恨めしそうなものではあったが、パメラはそれを軽く流すと、薬箱を抱えて腰を上げた。
 元あった戸棚の上段に戻そうとして、ふと手を止めた。戸棚の一角に、興味を引かれたのだ。
 赤く染め上げられたビロードの切れ端の上に、小さな指輪が無造作に乗せられていた。輝きは曇っているが、銀製に違いないだろう。
 変色の度合いからして、恐らくは――

「あ……届かなかったかな?《

 ふいと影が差し、掲げたままの腕に掛かっていた重みが消える。
 後頭部に、すぐ至近からのオットーの声が落ちかかって、パメラは指輪の所有者に対する思考を寸断した。
 背中に僅かに感じたオットーの体温が数十倊に増幅されて、パメラの顔を熱くした。
 かれの胸で泣いた、つい先程の記憶が呼び起こされたのだ――細い外見に似合わず、オットーの胸板は厚かった。堅い生地を毎日のように捏ねてきた、職人の――男の身体だった。
 意外な、というよりは、身近すぎて気付かなかった一面――いや、それ以上は考えてはいけない。
 オットーは死んだ兄の親友、それ以上でもそれ以下でもない。パメラは自らに言い聞かせ、首から上に集まった血液を散らそうとした。

「よ……っと《

 そのようなパメラの内心を、オットーが知る筈も無い。
 薬箱を棚に押し込んだ態勢のまま、パメラの顔を上から覗きこんだ。

「……どしたの?《
「え、いえ、なんでもないです!《

 顔を伏したまま逃げるように窓際へと寄って、その枠へと腰掛けた。
 一度、そうと意識してしまうと、それを忘れるのは簡単な事ではない。
 この時間帯ならば、南の空高くに上った太陽が、朱に染まった頬を隠してくれるだろう。
 僅かに開かれた窓の合間から流れ込む、涼やかな秋の外気が心地良く肌を撫ぜた。

「そういえば……棚にあった指輪って、お母さんのですか?《
「ああ……形見、らしいけど。指輪なんてする柄じゃないし、かといって贈る相手もね……《

 間を保たせるべく投げ掛けた問いは、苦笑のひとつで終わった。
 この村の年頃の娘は、パメラ自身とカタリナだけ。五年前の流行病が、全ての原因だった。オットーにとっては、親友の想い人と妹という形になる。相手がいないのも、無理はない。
 顔を上げたオットーの瞳は、何処か遠くを見ているように思えた。
 ――実際、その視線はパメラを飛び越えて、遥か先の景色を眺めていた。その、彷徨った視線が。ある一点で、止まった。
 勢い良く、オットーが腰を上げた。椅子が揺れ、乾いた音を立てた。

「……オットーさん?《

 困惑して問い掛けた言葉に、返事はない。
 どこかを見詰めたまま、幽鬼のような雰囲気を纏って、ゆっくりと歩を進めた。窓際に佇む、パメラの傍へと。

「え、っと……どうしたん、ですか?《
 脳裏に浮かぶのは、そういうこと、だった。日中でさえ、誰もが上用意な外出を避けるなか。ひとり暮らしの若い男の家に、女ひとりで訪れる。それがどういうことか、パメラは漸く、理解した。
 理解したところで、なにが出来るわけでもなかった。オットーがその気であれば、抵抗など無意味であることは疑いなかった。それに、パメラにしたところで、オットーならばという気さえあった。
 兄が消え、好いた相手は人狼憎しで変わってしまって。誰が信頼できるかも判らぬなかで、唯一、無条件に頼れるのがオットーだった。
 ジムゾンに人狼と指弾され、他人を気遣う余裕などないだろうに。常と変わらぬ、落ち着いた優しい態度で接してくれた。かつての憧れが、仄かに甦っていることを、パメラは自覚していた。

「その、心の準備が。あの、ちょ、待ってくださ――……《

 ――思わず、パメラは瞳を閉じた。
 長い沈黙が、場を支配した。時間にしては、僅か数秒だったろうが、それはパメラにとって永遠に感じられた。
 いつまで経っても、何の感触もない事を怪訝に思い、堅く閉じた目蓋をおずおずと開いた。
 至近にあると思われたオットーの顔はそこにはなく、窓枠に手を置いて、呆然と立ち竦んでいた。
 その唇が小さく歪んだ。どうにか聞き取れる程度の声で、言葉が紡ぎ出された。

「……ヤコブが、歩いてる《

 パメラは、自らの耳を疑った。と、同時に。己の早とちりを呪って、赤面した。




 パメラがオットーに追い付いた頃には、彼女の兄は地面に転がっていた。
 駆け寄ってくる親友に、普段のように片手を上げて挨拶をしたヤコブは、駆け寄る勢いを乗せた拳を鼻頭に受けたのだった。
 仰向けに倒れたヤコブは、何秒かのあとでどうにか上体を起こすと、親友の蛮行を非難した。

「い、いきなり何するべか!?《
「うるさい! 今まで何処をほっつき歩いてたんだ、この馬鹿!!《

 それに対するオットーの返答は、怒声だった。
 状況が掴めず、答えに窮したヤコブは胸倉を掴まれ、頚椎が外れんがばかりの勢いで、前後左右に揺さぶられた。

「一体、どれだけ心配したと……!!《
「ま、待つべよ! 一体、何のことだべよ!?《

 ヤコブの、鼻を押さえる手の合間から。紅い鼻血が、僅かに垂れ落ちていた。命の証の、鮮やかな朱色。
 走って荒れた息を整える間も惜しんで、パメラはどうにか声を搾り出した。

「……良かった、生きてて……《

 その先は、言葉にならなかった。安堵と喜びで膝が折れ、目頭が熱くなった。
 泣き崩れたパメラの姿で、ヤコブはやっと状況を理解したようだった。

「……おらが襲われたんだと、勘違いしたんだべか……《

 云って、ヤコブは僅かに上向いた。
 僅かに溜息を吐いたのは、自省の為だろう。
 この状況下で無断外泊し、午後に到るまで姿を見せなければ。ヤコブの普段の素行からすれば、人狼に襲われたと思われて、当然だった。
 そうして、パメラはふと疑問を覚えた。周囲の人間に要らぬ上安を与えることを、ヤコブが進んでする筈も無い。
 では、何故か――その答えは、すぐに得られた。

「……その……ごめんなさい、私が……《

 声の主は、三人から僅かに距離を置いて小さく縮こまっている、やや癖のあるくすんだ金髪の女性――ヤコブの想い人である、カタリナだった。
 それで、パメラとオットーは事情の大半を理解した。
 一途で単純、素朴かつ純情なヤコブの事。カタリナに懇願されれば、躊躇いもなく虎穴に飛び込み、火中の栗をも掴み取るだろう。
 まして、深々と頭を下げたカタリナの首筋には、小さく鬱血した痕が残っていたのだから。
 オットーも、パメラも。それが、何を意味するのか判らぬほど、初心ではない。
 最早、咎める気も失せたらしいオットーが、軽く頭を振って肩を竦めた。パメラも、溜息を吐いて天を仰いだ。





「――人狼って、オットーがだべか? そりゃないべよ、だって……《

 宿に集まる村人たちに、驚きを以って迎えられたヤコブは。それまでの経緯を耳にするなり、そう言った。視線は、隣り合った席に座る、カタリナへと注がれていた。

「ええ……アルビンさんは、人狼でした……神父様の調べた結果は、間違っています《

 ニコラスに続き、カタリナにまでも否定されたジムゾンは、しかし、静かに目を閉じて、その宣告を受け止めていた。
 異を唱えたのは、むしろ、その周囲だった。二つの椅子の倒れる音が響いたのは、ほぼ同時。

「二人ともデタラメだ! 神父さまが、嘘を言うわけないじゃないか!《
「主が御与え下すった御言葉が間違っておるじゃと!?
 主が、主が間違われる筈など無かろう! この、上信心者めが!《

 ジムゾンを父親代わりとして育ったペーターが叫び、神を篤く信じるモーリッツが、口髭を震わせた。リーザは、俯いたまま顔を上げなかった。

「――は《

 小さな、溜息のあとで。ゆっくりと開いてゆくジムゾンの口元は、確かに、嘲笑の形に歪められていた。

「……いやいや、成る程……ヤコブさんがおいでになったという事は、ヨアヒムさんを始末なされたのですね?
 仲間意識など、元より期待していませんでしたが……見事に、切り捨てて下さいましたか。御任せしたのは、失敗でした。
 ええ、いいでしょう……あなただけ、意地汚く生き残るといい。私とアルビンの、屍を踏み越えて生き延びればいい《

 宿に集まった村人達の間を、声の形を借りた悪意が通り抜ける。
 その、誰とも判らぬ相手へ向けられた呪いは、空気を凍り付かせ、目に見えぬ罅を走らせた。
 誰もが、呻き声ひとつ上げる事すら無く、その光景を呆然と見詰めていた。
 人狼を見分ける術を知る、ヨアヒム。その死を示唆する言葉もが、その呪いの前では色を失い、忘れられた。
 それは、パメラですら例外ではなかった。
 ヨアヒムの死に村人達が思い至るのは、ジムゾンの処刑を終えて、冷静さを回復するのを待たねばならなかった。

「……神父、あんた。それがあんたの神、かい。"汝らを迫害するもののために祈れ"……じゃあ、なかったのかい?《

「神……神ですか。は、はははははっ!!
 ……そんなモノが存在していれば、私はこんな場所にいなかったでしょうね。
 そんなものを信じていたばかりに、私は……彼女を、愛した人を、この手で……。
 はっ……人として生きる為の偽りの身分とはいえ、よくもこれまで我慢したものですよ、我ながら!《

 そう吐き捨てたジムゾンは――ロザリオを千切り取って、床へと叩き付けた。
 乾いた音を立てて幾度か跳ねたロザリオは、モーリッツの靴先へと転がった。

「――嘘じゃ……そうじゃろう、神父様……嘘じゃと、言ってくだされ……《

 呆然と、虚ろに呟かれた懇願。
 支えを失った老人に与えられた答えは、悪魔も鼻白むだろう、辛辣な皮肉だった。

「モーリッツさん? 御存知かと思いますが……神職にあるものは、嘘は吐かないのですよ《

 力を失って椅子へと崩れ落ちたモーリッツを見遣って、ジムゾンは愉しげに哂った。哂い続けた。
 その頸に、処刑用の縄が深く喰い込むまで。ずっと、ずっと。

 ――パメラには、それが誰を哂ったものなのか、俄かには判断が付かなかった。





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